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家持と池主①

746年7月家持は越中国に赴きます。その家持に、叔母の坂上郎女や、平群郎女から歌が贈られてきます。家持の華麗な女性関係についてはまた後ほど。越中国で家持をあたたかく迎えたのが幼馴染の大伴池主でした。

8月7日(陽暦8月31日)国守の館で宴が持たれます。

秋の田の 穂向き見がてり 我が背子が ふさ手折りける 女郎花かも(1巻十七3943)

あきのたの ほむきみがてら わがせこが ふさたおりける おみなえしかも   家持

秋の田の実り具合を見回りながら貴方がどっさり手折って来られた女郎花よ。

 

女郎花 咲きたる野辺を 行きめぐり 君を思い出 たもとほり来ぬ(1巻十七3944)

おみなえし さきたるのべを いきめぐり きみをおもいいで たもとほりきぬ 池主

女郎花の咲いている野辺をあちこち巡り歩きながら女郎花を愛でる貴方を思い出して手折って来ましたよ。

馬並めて いざうち行かな 渋谿の 清き礒廻に 寄する波見に (巻十七3954)

うまなめて いざうちゆかな しぶたにの きよきいそねに よするなみみに 家持

馬を並べてさあ鞭打っていこう。渋谿の清らかな磯の湾に寄せる波を見に。

おそらく池主は家持よりやや年長、従兄の関係にあり、坂上郎女による文学修養の場をともにしたと考えられています。赴任先の越中国に池主が国司の一員である掾(第三等官)に着任していたことは家持にとっては心強い限りであったと考えられます。

池主はこの宴のあとまもなく大帳使(国衙の政務報告の使者)について上京します。

そして9月25日家持の弟書持の訃報が越中の家持に届きます。

真幸くと 言ひてしものを 白雲に 立ちたなびくと 聞けば悲しも (巻十七3958)

まさきくと いいてしものを しらくもに たちたなびくと きけばかなしも

命無事でと行って来たものを白雲となって立ちたなびくときくと悲しいことよ。

家持は深い悲しみに沈みます。そんな家持を慰めたのは11月に都から戻った池主でした。池主の無事の帰越を喜んで家持は宴を催し、次のような歌を贈ります。

庭に降る 雪は千重敷く 然のみに 思ひて君を 吾が待たなくに(巻十七3960)

にわにふる ゆきはちえしく しかのみに おもいてきみを あがまたなくに

庭に降る雪は千重に降り積もっています。しかしあなたのことをそんな程度だけに思って待っているのではありません。

白波の 寄する磯廻を 漕ぐ船の 楫取る間なく 思ほえし君 (巻十七3961)

しらなみの よするいそまを こぐふねの かじとるまなく おぼおえしきみ

白波が寄せる磯廻を漕ぐ船の楫の合間もないかのように、絶えず思っていたよあなたのことを。

 

池主は家持の歌作に大きな影響を与え、また、万葉集の編纂にも大きな力を発揮することとなります。家持と池主の交遊は、757年、池主の非業の死まで続きます。

2020.8 葉月.21 雷が光る夜

よろしければ続きもお読みください。

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今でも手元にある「長くつ下のピッピ」「やかまし村のこどもたち」が読書体験の原点。「ギャ〜!」と叫ぶほかない失敗をたび重ねていまに至ります。

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