manabimon(まなびもん)

家持追っかけ旅②輪島から珠州(すず)

能登半島の輪島、美しい街並み、美しい漆器、そして、海産物が豊富で美味しいもんだらけ〜〜今の季節の旬のものを食べたいと、「のどぐろ本舗」に入りました。可愛らしい女の子二人と、寡黙なご主人との三人がフル回転、ソーシャルディスタンスに気をつかいながら営業しておられました。何もかも全て絶品、美味でした。

輪島の街も黒い屋根黒い板塀の落ち着いた風情です。温泉もよし。日本三大朝市の一つ、1000年以上の歴史を持つという「朝市」に行きました。猛暑(昨日は富山で37度を記録したそうです)の中、何もかもとろけそうです。朝市に出店しているおばあさん達の体調が心配になるほどでした。「輪島キリコ会館」「輪島工房長屋」など気になるスポットを横目に、「白米(しろよね)千枚田」に向かいました。

美しい千枚田は、後継者不足で、1980年頃には荒廃が進んでいました。この千枚田を修学旅行先に選んだのが愛知県安城(あんじょう)市にある県立安城東高校でした。1982(昭和57)年度から10年間、2年生が毎年、修学旅行で訪れ、勤労体験学習として草刈りに取り組み、延べ約4500人が参加。この活動に触発され、輪島で保全に向けた機運が高まり、今では、オーナー制度により、田起こし・田植え・草刈・稲刈りの各イベントでは、全国からやってくるボランティアでにぎわっているとのこと、そして能登の観光スポットともなりました。

いつも、どこもここも、人が少ない今回の旅行ですが、ここには人が多くいました。道の家から千枚田をみながらソフトクリームなめている親子連れや、様々なナンバーの車やバイクがここに集まってきていると感じました。高校生の力!、修学旅行を企画した旅行社や先生方のアイデア力!素晴らしいですね。http://senmaida.wajima-kankou.jp/about/

家持はこの珠洲をどのような目的で歩いたのでしょうか?当時の国司は、国から支給される給料の他に、税金から国に納めるべき分を差し引いたものが収入となったそうです。春に農民に稲を貸し出し、秋になって貸した分の稲と利息分の稲を集めたのです。たくさんの米を貸す努力をして初めて秋の収穫の収入が増えるということです。この狭い海岸沿いの集落にも家持は米を貸して歩く苦労は大きかったと思いますが、家持の歌にはその苦労については触れられていません。

千枚田を後にしての目的は時国家(上・下両時国家)です。日本史学者の故網野善彦氏(1928~2004年)が問い続けた非農業民論の着想を得たのが時国家です。名著『日本の歴史を読みなおす』(ちくま文芸文庫)はおすすめです。https://honto.jp/netstore/pd-book_02567883.html

時国家は能登に流された平時忠(1130~1189年)の末裔といわれています。時忠とは、平清盛の義弟で、姉の時子が清盛の妻、妹の滋子が高倉天皇の母となっています。「平家にあらずんば人にあらず」の言葉が有名です。時忠が能登に流された後、その子孫であろう人々が塩田や廻船業で家を大きくしたのです。農業以外の産業で富を得ていた人々が日本には多くいたのですが、「農業」ばかりを中心に日本の歴史が語られることに対して網野先生は疑問を呈したのです。

(家持の時代の税金は「租庸調」(歴史の教科書にありましたね)。米で納める「租」。兵役を求めるが、その代わりに布や塩などを納める「庸」。特産物などを納める税「調」。越中国からは「鮭の干物」「鮭鮨」「フナの干肉」など魚類の加工品が特産物として納められていたことが知られています。)

江戸時代初期に50年かけて作られたという茅葺入母屋作りの、重要文化財に指定されている下時国家は残念ながら閉館中でした。2019年10月の台風16号の被害で屋根がめくれた後の補修中です。すぐ近くの上時国家に行きました。こちは江戸時代後期に28年かけて作られたとのこと。茅葺大屋根の高さは18メートル、大屋根を支える巨大な梁は、周囲が2メートルの松の芯材という壮大な作りでした。時国家が長い間(現在24代目とのこと)豊かな財産を時々の当主の努力で築いてきたことがわかる展示でした。http://tokikunike.jp/

次の目的地は能登半島の最先端、ちょうど外浦と内浦との接点にあたるところにある「禄剛埼灯台」。明治時代にイギリス人の設計で造られた白亜の美しい灯台です。そして、この岬は「海から昇る朝日と、海に沈む夕陽」が同じ場所で見れることで有名です。残念ながら朝日の時間でも夕陽の時間でもなかったのですが、美しい海が果てしなく広がる風景は絶品。

次は軍艦島(見附島)で一休み。その先の海岸は恋路海岸というロマンティックな名前。

そして真脇遺跡公園に向かいます。能登半島は旧石器時代、縄文、弥生、古墳などの遺跡がたくさんあります。真脇には約6000年前から約2000年前まで、4000年間採集・漁撈の生活を営む集落があったようです。

遺跡は発掘当時(1982~3年)、水田の土地の約1メートル下にあったそうです。そこから約3メートル下まで遺跡の含まれる層が年代順に整然と層をなしており、豊富な史料が発掘されたため、「考古学の教科書」などとも呼ばれています。発掘で出土した厚く堆積した300体を超える大量のイルカの骨や、長さ2.5メートルもある巨大な彫刻柱、

厳つい風貌の土面(日本最古の仮面)

土偶、埋葬人骨などが大きな話題となりました。資料館では出土品を展示、体験コーナーなどもあります。コロナ禍の影響か、可愛らしい小学生づれのご家族と私たちだけ、でした。http://www.mawakiiseki.jp/guide.html

私が気に入ったのは鳥面土器。

真脇遺跡から飯田町にある春日神社に向かいます。家持の歌碑があるのです。

珠洲の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり(万葉集巻十七4029)

すすのうみに あさひらきして こぎくれば ながはまのうらに つきてりにけり

珠洲の海から朝港を出て漕ぎ出して来ると、いつか長浜の港には月が照っていたことだ。

家持は輪島から半島を廻り、春日神社近くにある宇出津の港から、長浜の港(現在の氷見)に船で移動し、丸一日かけて国府のある高岡に戻ったのでした。美しい歌です。

2020.葉月