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家持と橘諸兄・奈良麻呂〜万葉の花⑤あじさい 変わらない?変わる?(2)

まだまだ美しい紫陽花が見られます@京都府立植物園。

またまた繰り返しになりますが・・・家持の気持ちにそうために・・・

740年9月の藤原広嗣の乱以後、聖武天皇は伊勢・伊賀・美濃・近江を行幸して、恭仁京に入り都の造営に取りかかります。三年後の743年12月その工事をストップして紫香楽宮の造営に力を入れはじめました。しかし、わずか一ヶ月後の744年1月、今度は難波宮への行幸の諸準備を命じ、閏1月、臣下たちに、都として恭仁京か難波宮のどちらを選択するかを問うています。臣下の意見はまっぷたつに分かれました。しかし天皇は閏1月11日難波宮に行幸します。迷走としか言いようのない行動でした。

はじめ難波宮行きに従った、天皇の唯一の皇子である安積親王は、足の病のために恭仁京に引き返し、二日後歿します。享年17歳。母の出自が低かったため(藤原氏の力が強かったため)、五年前に藤原光明子の娘の阿倍内親王が立太子しました。とはいえ、夫を迎える自由のない女性皇太子の阿倍内親王の後継者としては安積親王は有力な皇子でした。藤原氏と、橘氏の対立の構造の中、安積親王の母は橘氏の親戚にあたり、今後の天皇候補として橘氏にとっては大切な人材でした。その安積親王の急死には、藤原仲麻呂の陰謀があったと考えられています。

橘諸兄の庇護下にあった大伴家持にとっても安積親王は大切な人でした。宴を共にすることも多く親しかった親王の死に家持は強い衝撃を受け、深い哀しみを表した挽歌群を残しています。その中で「木立の繁に 咲く花も 移ろひにけり 世の中は かくのみならし(巻三 478)木立が繁っているなかで咲いていた花も今は色あせていることだ。世の中とはこのようなものでしかないらしい。と、花の移ろいを世の無常とかさねて表現しています。

2月下旬聖武天皇は再び都を紫香楽宮に移しますが、紫香楽宮では不審火が多発し、地震も頻発し、天皇は結局都を平城京に戻しました。

迷走し続けた聖武天皇は何を畏れていたのか。前回家持があじさいに託した気持ちとして「誰も信じられない」心持ちをあげましたが、まさしくそういった心持ちが天皇を迷走させたのでしょう。藤原宮子を母とし、藤原光明子を妻とし、藤原氏の栄華を望む立場でありながら、一方で藤原氏に全てを委ねることができない皇族としての立場もあった聖武天皇は、二つの立場に引き裂かれ苦しみます。それぞれの立場を代表する藤原仲麻呂と橘諸兄を両輪として重用することでなんとかバランスを保ちながら仏の力を借りて国を治めようとし、六年の歳月が流れます。この間、家持は30歳を超え、越中国守を経て、平城京に戻り少納言となりました。

750年聖武天皇は阿倍内親王に譲位(孝謙天皇)し、752年盧舎那仏が完成、盛大な開眼供養後、孝謙天皇は藤原仲麻呂の屋敷を御在所とし、政治の中心は、明白に、左大臣橘諸兄から、大納言藤原仲麻呂へと移っていきました。とはいうもののまだまだ両派の力はせめぎ合い拮抗し合いながら、755年を迎えます。家持は防人の歌を記録後京に戻りました。

5月11日左大臣橘諸兄は右大弁丹治比真人国人(たじひのまひとくにひと)の宅に宴をもち、あじさいの歌を詠じます。

あじさゐの 八重咲くごとく 八代にを いませ我が背子 見つつ偲はむ

(あじさいの やえさくごとく やつよにを いませわがせこ みつつしのばん)

橘諸兄 万葉集 巻二十 4448

紫陽花が幾重にも重なって八重に咲くようにあなた様もいつまでも穏やかにお元気でおられますように。この花を見ながらお祈り申し上げます。私はこの花を見るたびにあなたを思い出しましょう。 

このうたは、宴の主である丹治比真人国人の

我が宿に 咲けるなでしこ 幣はせむ ゆめ花散るな いやをちに咲け(わがやどに さけるなでしこ まどわせみ ゆめはなちるな いやおちにさけ)万葉集 巻二十 4446    私の家のなでしこは神様(天皇)に贈るのに相応しく美しく咲きました。決して花を散らさず長く長く咲き続けて欲しいと思います。

への返歌です。この歌ではあじさいは八重に重なって咲く、めでたい花として詠まれます。

七日後の宴では、船王(ふなのおおきみ=舎人親王の子)と家持がなでしこの歌を交わしています。

同年10月に聖武太上天皇が病に伏し、この頃の橘諸兄の宴での行動が、諸兄の側近から「言辞礼なし、やや、反状(謀反の様子)あり」と密告され、756年2月諸兄は引退を余儀なくされます。5月聖武太上天皇は逝去します。その遺言は道祖王(ふなどおう)を皇太子にというものでした。聖武天皇は最後に藤原仲麻呂から遠い彼を次の天皇にという遺志を示すのです。翌757年1月7日橘諸兄は失意のうちに亡くなります。しかしその死に際して、家持の挽歌は残されていません。

諸兄の死を好機として、3月27日孝謙天皇は、道祖王を廃し、藤原仲麻呂の娘を妻とした大炊王を皇太子とします(この時船王も皇太子候補に挙げられます)。6月末橘奈良麻呂(諸兄の子)たちが謀反を画策したとの複数の密告があり、7月、仲麻呂側に立った船王は厳しく奈良麻呂たちを訊問、奈良麻呂、道祖王、大伴古麻呂らは拷問の末に惨死します。家持の幼馴染大伴池主もおそらく同じ運命を辿ったと考えられます。大伴一族の長老古慈悲は土佐に配流、上記の宴の主、丹治比真人国人は伊豆へ配流となりました。

政界に激震の走る直前の6月23日三形王の宴で、40歳の家持は次のような歌を残しています。

移りゆく 時見る毎に 心痛く 昔の人し 思ほゆるかも(うつりゆく ときみるごとに こころいたく むかしのひとし おもおゆるかも)万葉集巻二十 4483 移りゆく時節を見ていると、こころ痛く昔の人が思い出されてならない。

咲く花は 移ろふ時あり あしひきの 山菅の根し 長くはありけり(さくはなは うつろうときあり あしひきの やますがのねし ながくはありけり)万葉集巻二十4484 美しく咲く花は移ろいゆくものである。山菅(やますげ)の根っここそ地味ではあるが長くあるものだよ

移ろいゆく花、安積皇子の挽歌でも使われた言葉です。そのように移ろいゆく花の代表があじさい、ということなのでしょうか。哀しい歌です。私は、この歌について、あじさいを変わらないめでたい花と詠んだ橘諸兄への挽歌のように感じます。そして家持には直後に起きる悲劇〜盟友たちの滅び〜への予感が間違いなくあったでしょう。

「山菅の根」に例えられた家持自身の立場〜動かない、動けない、変わらない〜を守る他の選択肢は彼にはありませんでした。

参考文献追加

万葉集辞典 (中西進編) 講談社文庫https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000159838

万葉の歌びとたち(中西進) 角川選書https://www.kadokawa.co.jp/product/321904000477/

2020.文月.6更新

家持と諸兄〜家持と大嬢 不信の花〜万葉の花⑤あじさい(1)もお読みください。

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