日本を学ぶ

飛鳥美人(高松塚古墳)アナザーストーリズ

アナザーストーリーズ、今日は、694年〜710年に作られたという高松塚古墳。これは見ないわけには行きません!「飛鳥美人〜それはパンドラの箱だったのか?」https://www.nhk.jp/p/anotherstories/ts/VWRZ1WWNYP/

1972年3月21日 奈良県明日香村の高松塚古墳から1300年の時を超えて極彩色の絵画が発見されました。

国宝発見のきっかけになったのは、近辺の村人たちの「悲願」でした。高度経済成長の真っ只中にあった日本。奈良県明日香村にもその波は押し寄せてきました。「村の至る所にある遺跡が、開発されたら全てパーになる」と危機感を持った関武さん。1970年飛鳥古京顕彰会を結成、「文化財を見つけ出し自分たちで守る」と声をあげました。真っ先に調査したのが高松塚古墳。生い茂る竹藪の中に小さい穴があり、角に凝灰岩の切石があった。誰も調査していない皇子の石室があるかもしれない、考えました。

村は開発派と保存派に分かれ、激論が交わされていました。

関さんと同様保存に力を入れたいと考えていた当時青年団のリーダーだった福井清康さん。明日香村村民が史跡保存にもっと関心を持って欲しい、と、開発を望む村民との話し合いを続けました。大阪で鍼灸を生業としていた御井(みい)敬三さんは福井さんと意気投合し、明日香の保存・発展への願いは、御井さんに鍼を打ってもらっていた松下幸之助さんを動かしました。松下さんが政府を動かし、1970年6月時の佐藤総理大臣が明日香村を訪れ、政府が、松下幸之助さんとともに、史跡を生かした観光開発を支援することとなりました。

高松塚で石室でも出てきたら・・・と関さんは考えました。いくつもの偶然が重なり(良くわからない?)発掘が行われました。村から50万円を出してもらい、関さんの中学の恩師で関西大学の教授となっていた網干義教さんが発掘を担当。関西大学の学生たちは荒れ果てた古墳の発掘という重労働をボランティアで行いました。村民たちは、送り迎え、お弁当、道具の用意、などなど、絶えず学生たちをサポートしました。

3月20日穴が見つかった。この日は大嵐でした。当時発掘をしていた森岡秀人さんは「何か不気味である」とノートに綴りました。古墳自体が拒否反応を起こしているような感じがしたそうです。次の日、「エライコッチャ」と網干先生が役場に飛び込んできました。震えておられたそうです。鎌倉時代に盗掘者が開けた穴から中をのぞくと、驚きの光景が目に飛び込んできました。東の壁面に青い服を着た人の姿・・・東と西の壁に男子群像女子群像、方位を司る白虎・玄武・青龍といった神獣が、色鮮やかに描かれていました。

被葬者の骨、銅鏡なども発掘されました。連日、全国から人々が殺到しました。都会から明日香に人が集まったのは初めてだった、と言います。松下財団は駅前に観光センターを作りました。遺跡としては初となる寄付金付き記念切手は爆発的な売り上げとなり、6億円の寄付金が集まり周辺の土地を国が購入、そして1980年には明日香法ができ、地域振興と文化財保護が目指されました。

日本中を席巻した明日香美人と、1年半後対峙し、模写したのが日本画の巨匠平山郁夫でした。その絵は明日香資料館に保存されています。

石室は封印され、誰も見ることができなくなっていました。一般の人に見せるために模写が必要だったと言います。総監修は前田青邨、七人の画家たちが石室に入りました。95パーセント以上の湿度、14℃にした狭い石室内に這うように入り、壁画を模写。温度が上がると出ていってもらわなければならなく、一人30分しか許されない。高松塚発見前に、壁画のある卑弥呼の墓を想像して絵にした平山は「1300年前の目垢の付いていない壁画」との出会いに運命を感じたと言います。「まるで私に見つけてくれといっているようだ」と、写真では表現できない芸術性を求めて格闘しました。

明日香美人を描く「線画は慎ましやか」であり「これこそ日本の美の源流」と感じたそうです。模写には個性を出してはいけない、禅の修行のようなものでした。1300年の間に微妙に変化していた色彩の表現にも苦労しました。7ヶ月をかけて完成した模写は、発見直後の美しい姿を伝え、全国各地を巡回、大好評でした。その後平山郁夫は文化財保護のために世界各地を回ります。内戦が続くアフガニスタンでバーミアン石仏が破壊されたことに対しても対しても抗議の意味をこめた絵を発表しました。

高松塚古墳発掘の30年後衝撃的な事実が明らかになりました。カビが生え、壁画の劣化が著しいことがわかったのです。白虎は黒ずみほとんど分からなくなっていました。明日香美人が消失の危機にある。2006年作業員が傷をつけたことを公表しなかったことを隠していたことに批判が集まりました。当時の河合隼雄文化庁長官が苦渋の記者会見を開きました。発見が古墳をダメにした、と関西大学の関係者までもが非難されました。保存対策委員会では「人が二度と入らないよう密閉するべきだ」という極端な考え方も出ました。「誰も見ることができないものを本当に文化財と言えるのか」、議論の果てに、「石室を解体し修復する」という案が出されます。壁の漆喰がボロボログニョグニョでいまにも剥がれそうな状態、どうやって修復できるのか。

この時、石室解体を担当したのが石工の左野勝司さんです。1988年藤ノ木古墳で石棺を無傷で出したという実績がありました。石のことをよく知るが上に難しさを知っていた佐野さん、石工として「絵だけが国宝で、石は関係ない」という状況に怒りを覚えました。石工としての矜持をかけて挑戦した左野さんは、クレーン会社と共同でタコの吸盤のようなゴムで挟む力が微妙に調整できるような特殊な道具、オクトパス、を16個の石ごとに開発しました。何回も実証実験を繰り返し、2007年4月5日本番の日。作業は公開で行われ日本中の注目を集めました。5月10日明日香美人が描かれた石に取り掛かります。精密に作られた石室は隙間がない、つかむところがない。巨石を運ぶときに使うコロを使う、というアイデア。ジャッキでほんの少しあげた隙間に鉄の棒を差し込み動かし持ち上げることができました。その途端、ワイヤーがずれて外れてバーンと音がしました。

皆がもうダメだ、と思いました。しかし幸いワイヤーが外れただけで済み、石は全て運び出され、壁画の修理は2020年3月までかかりました。いまでは直近で本物を見ることが可能になりました。

「遺跡からしたら発掘されない方がよかったかもしれない」「でも見ることができて嬉しい」・・・今後壁画はさらに変化していきます。壁画をめぐる多くの人の取り組みは続きます。

また、関西大学と明日香村は新たに遺跡発掘に取り組み、中尾山古墳の調査が行われ、天皇陵の可能性が示唆されています。   (この番組は10月14日午前8時 BSプレミアムで再放送予定です。)

2021・10・5(火)来週は「愛の不時着」です。あらあらこれも見たいです。

この番組を見ながら当時のことを思い出していました。父が古墳へすっ飛んで行って走り回って明日香美人の風呂敷を作ったこともあって、我が家には明日香美人に関する本や写真集などがたくさんありました。そして応接間には明日香美人の縮緬の風呂敷を額に入れて飾っていました。

梅原猛さんは1973年「黄泉の王〜私見・高松塚」を刊行、高松塚古墳の被葬者は「弓削皇子」との考えを発表しました。この本はとても面白いです。万葉の歌人たちの姿が生き生きと描かれます。ただ、実際の被葬者の骨からは40代〜60代の人物と考えられ、20代で非業の死を遂げた弓削皇子の可能性は低いということです。同じ天武天皇の子、忍壁皇子説、高市皇子説が有力なようです。

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たつこ
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今でも手元にある「長くつ下のピッピ」「やかまし村のこどもたち」が読書体験の原点。「ギャ〜!」と叫ぶほかない失敗をたび重ねていまに至ります。

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