自分と向き合う技術

本 ヘルシンキ生活の練習

朴沙羅さんは、2020年2月からヘルシンキ大学日本語講師として働くことになりました。そこで感じたこと、思ったことを「ヘルシンキ 生活の練習」という本にまとめ、2021年11月出版、大きな反響を呼びました。

沙羅さんは、日本国籍を持つ、在日コリアン。父が韓国人で母が日本人なので「ハーフ在日」というのが正確。名前が韓国風なので、日本人とは扱われず、小学校の時にはいじめられた(らしい)そうです(らしい、というのは覚えていないから)。自分の何が悪いのか、何者なのかを悩みすぎて、面倒臭くなった頃に小学校時代が終わり、中学入学。学校にきていた英語の補助教員は、彼女が何人だろうがどうでもいいらしい、と気づき、その人と話す気楽さから、「そういう場所」に行けばいい、「外国」に住めばいい、と思うようになったそうです。

そんな彼女は「私は私、なにじんでもない」と思うようになり、大学で社会学を学んだら「問題なのは、私が「私は何者なのか」と悩まなければならないような状況のほうではないか」と気づいた、そうです。

『社会学の良いところの一つに、自分のせいにしないことがある』という神戸大学の小笠原博毅https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E5%8D%9A%E6%AF%85

さんの言葉を沙羅さんはインタビューで語っておられますが、そうなんですよね。「悩んでいる私が悪い、私のせい」と思って悩む人が多いですが、違うんですよね。そのために社会のいろいろを学ぶ意味ってあるんですよね。

しかし、沙羅さん、子どものユキさん、クマさん(仮名)が小学校に通い始めたら、親のルーツが原因でいじめられるのではないか、と思います。沙羅さんのお父さんは、名前が原因でいじめられた娘に対して「あなたが受けているのは民族差別である」と定義し、いじめの対策だけでなく差別の対策を取るように学校に交渉をしに行ったそうです。

沙羅さんは自分が同じようにできるだろうか、ユキさん、クマさん(それぞれ父母の姓を名乗っている)の今後のことを考えだすと胃が重くなるのです。・・・「ていうか、だから、なんで私がこんなことに悩まなあかんねん。いつまでこのネタを引っ張らせる気や、日本社会は。」・・・という言葉がユーモラスではありますが痛烈です。

郷に入れば郷に従え、という言葉がありますが、小さな日本社会の中でさえ、部署が変われば、職場が変われば、地域が変われば、学校が変われば、常識が変わります。日本から遠く離れたフィンランドでの、「目から鱗」体験を、この本で私たちも追体験することになります。それはとても心地よい体験でした。

保育園に関して、フィンランドと日本の最大の違いは、「保育園に入る権利は保護者である親の労働状況にではなく、子どもの教育を受ける権利に紐づいていることである」・・・そうなんですよ。「保育に欠ける状態」だから保育園に入るのではなく、「子どもは基本的に保育を受ける権利がある」のです、フィンランドでは。これって当たり前のことだと思うのですが、日本では違うんですよね。

だからと言って、当然のことながら、フィンランドの何もかもがバラ色っていうわけではなくて、二人の子どもが別々の保育園に入ることになったり、頑張っていた家探しがうまくいかなかったり。でも家のことは職場で愚痴ったら、実は社宅があることがわかり、そんなこと言ってよ!と思う沙羅さんに「困っているといてくれないと助けることはできない」という担当の人。沙羅さんは思うのです「困ったら、はっきりと助けを求めたら、誰かが助けてくれる」。

日本にいる時、息苦しいとてもひどい社会に生きているような気がしていた沙羅さん。指導者に対する評価を比較すると日本は一番低い、無為無策にかかわらず、新型コロナが原因の死者は少ない、それは現場の努力のおかげ・・・でもそんな素晴らしい努力をする人々が、そんなに無為無策の政権を生み出し支持し続けている?私たちが苦しい理由は、私たちが思っていることと、違うところに起因しているのではないか?2020年3月から沙羅さんの頭からこの疑問は離れない。

善良で優秀な個人が現場で頑張ることによって、公的な制度が不備のままに置かれていることはままあり、そのような公私の別なくすり減らして頑張っていることに、喜び感謝する私たちがいる。そこで「あなたががんばらなくちゃいけないのは仕組みにも問題があるんじゃないですか」というのは熱意を削いだり揶揄しやりする悪意ある発言と取られてしまう・・・沙羅さんの視点は的確です。

フィンランドの保育園では、指示に従わないクマは「独立した考えを持っている、いいこと」と言われます。沙羅さんは思います。指示に従わせないといけない日本の保育は、つまり先生たちの人数が足りていないからだろう、現場に時間と人とお金の余裕があれば「日本文化」みたいに言われがちな集団主義も変わるかもしれない、と。

私には次の部分が強く印象に残りました。「私は思いやりや根気や好奇心や感受性といったものは、性格や性質だと思ってきた。けれどもそれらは、どうも子どもたちの通う保育園では、練習するべき、あるいは練習することが可能な技術(スキル)だと考えられている

練習の必要なスキルがあれば、練習する機会を増やせばいい。身につけたスキルは正当に評価する、それは、褒める、という言葉にある肯定的な感情にみちた行為ではなく、淡々として評価なのだ。肯定も否定もせず、淡々と評価し、淡々とスキルを増やしていこうとする、保育園の先生たちの態度に、沙羅さんは驚き心地良く感じるのです。とはいえ、「ここの人たちは何かと盛り上がらない。もっと偉そうに言っていいんですよ、たぶん」とも思うのです。(笑)

母親としての自分に何の価値もない、と思い始めた沙羅さん、外国人向けの電話相談所に電話しました。じっくり話を聞いた後の提案は、「保育時間を長くしてもらって、でもその分絶対に仕事はしないで、ソサエティ(グループ)に入ってください、また、支援制度を活用してください」というものでした。

「ママ友を作りなさい」と言われたらそれは自己責任になる。でもグループや支援制度を紹介してもらって「ソサエティに入りなさい」と言われたら、自由に緩い関係の中にいることができるのですね。

そして「怒りが止まらないとか精神的にしんどいと感じたら電話してください、私が出ます」と言ってくれたそうです。同じ人に話を聞いてもらえたら電話するたびに繰り返し同じ説明をする必要もないし、その人が信頼できるならより安心ですよね。その後近くの支援制度の人と彼女は繋がって、具体的な色々な提案を受けます。「子どもに怒りすぎる」と感じている沙羅さんの相談に対しては、「母親は人間であるべき、だから、怒るのは悪くない」との前提に立って、「1、ちょっとタイムアウト(席を外して怒りをどこかにぶつける)。2、何に対して腹を立てたのか確認してときほぐして相手に説明する。3、もし怒りすぎたと思ったら謝る。子どもは怒りの表現方法と謝罪の方法を身近な人から学ばなければならないのであなたがその見本になる。」と淡々と述べるのでした。

子どもと親だけの関係は、危険だ。社会が〜つまり制度と規範と多様な人間関係が〜介入してくれなければ、私は子どもたちにとって危険が存在になる」。(p153)

ヘルシンキから電車で1時間弱のところにあるハメーンリンナという街の、お城の横にある軍事美術館に入った沙羅さん、充実した展示を見てあることに気づきます。「この博物館の展示は戦争を悪いことだと前提していない」〜そこから沙羅さんは日本の戦争観との違いについて考えます。「日本は社会全体としてそのような道を取ってこなかった、そうやって維持されてきた平和主義という建前は、欺瞞的なのかもしれない。でも人々はその建前を欺瞞でないものに作り変えるために、その時代なりの方法で努力してきたのではなかったのか」。

沙羅さんは、フィンランドの人たち同様、淡々と、日本とフィンランドを比較しどちらが良いと断定はしません。しかし彼女は日本で子どもを育てるのは嫌だと思いました。フィンランドで相談に乗ってくれたリータは、一人での子育ては大変だから他の家族がヘルシンキにくる予定はないのか、と質問しました。その時「子どもたちはすでに日本に父がいるから、日本とフィンランドの行き来ができると知っているからその状態を続けたい」と返事した沙羅さんに対し「素晴らしい!お子さんたちはすでに複数の文化の間で育つことのメリットに気づいておられるのですね」と指摘しました。沙羅さんにその視点はなかったと言います。「複数の文化の間で引き裂かれる不幸」を語る人も多い中、今ある状況のメリットに目を向けていく視点、思考は、素晴らしいです。見習いたいものです。

娘のユキちゃんは「日本とフィンランドを行ったり来たりしたらなにじんになるの?」と質問します。そしてしばらく考えて「わかった!間やからロシア人やな!」「はっ、でもユキロシア語しゃべられへんわ!どうしよう!」・・・この本の中に取り上げられたユキちゃんの発言は面白くて核心をついています。

フィンランドの社会福祉は、「困っている人」のためではなく「全ての人々の共通の平等の権利」だというところに特徴があるのです。配分を受ける量が少ない人には、税金は戻ってくるのです。いいなあ〜と思いますね。

でもフィンランドに住んでいる人の幸福度が高いことは、日本に住んでいる人にとってそれほど重要なことではないだろう、むしろ「私たちは不幸だ」と感じていることが問題で、そこにはフィンランドは関係ない、日本に住んでいて不幸だとかんじるのなら、その不幸は日本に属する私たち自身で解決しなければならない、と沙羅さんは考えます。

そのためにはどうすればいい?できる範囲でみんなで力を合わせて粘り強く頑張っていくこと。「課題は大きく、利害関係は深く、行政は無慈悲で、企業は貪欲で、人々の連隊は難しい」という現実は日本だけのものではないと。何人だとか性別だとか分類する人たちに対してその質問がなされる状況を問題にして、友達をたくさんつくって、「みんなで力を合わせて社会を変えていこう」。と沙羅さんは考え、この本を閉じます。

クスリと笑いながら、うーんとうなりながら、の読書でした。良い本にめぐり逢えたと思います。

また、「問題と自分を切り離す考え方を練習し、連帯して行くことが、個々人がいいなと思う生活に近づくために必要なスキルなのではないでしょうか」という題がつけられたインタビュー記事も素敵でした、特に「私は人間は生きていく上で社会運動に関わらざるを得ないと思っています。そして、日常は社会運動であり、運動はみんなでやるものです。」という言葉が印象に残りました。ぜひお読みください。

https://www.neol.jp/culture/111274/

2022年10月17日(日)

今朝の散歩も気持ちよかったです。

金木犀の香りがそこここから漂い、庭の柿の実も色づき始めました。柿色の美しい季節。

今頃フィンランドはどんな季節なんだろうな〜。

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英語学習・音楽制作・WEBデザイン・体質改善など、色んな『まなび』と『教育』をテーマにnelle*hirbel(通称ねるひる)を中心に学びクリエーターチームで情報を発信しています。 YouTubeチャンネルでは、音楽×英語の動画コンテンツと英語レッスンを生配信しています。

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