只今、万葉歴史館で、推し飛鳥人総選挙をやっています。25人の中から推しに投票するのです。
25人の中には、蘇我馬子とか、物部守屋とか、、、「推す人は少ないんじゃないか?」と思うメンバーもおりますが、一方、先日の人形展『万葉挽歌』にも登場した、額田王、有間皇子、大津皇子、大伯皇女、十市皇女、もいたり、お札としても超人気な聖徳太子(厩戸皇子)もいたりして、誰をイチオシにするかかなり迷います。
https://oshiasuka.nara-event.jp/
今改めてHPを見たらなんと、1日一票可能なんですね。しまった!前回(7月でした)私が投票したのは、迷いに迷って、「エントリー番号21高市皇子」。今日も投票しておこう。
なぜ高市皇子か?
天武天皇第一皇子で能力も高く、天武を支えて政権奪取し、太政大臣として政権の中心にいた高市皇子の生涯を辿るとき、その周囲に綺羅星の如く万葉の時代を彩った人々が顔を出します。
十市皇女との悲恋、天智系を倒す葛藤、持統天皇を巡る天武皇子たちの心の逡巡や駆け引き、、、高市皇子はいつも「瀬戸際」にいたように感じます。
大津皇子・大伯皇女・山辺皇女の悲劇の時、彼は何を考え、行動したのか。但馬皇女と穂積皇子の恋にどのように対処したのか。歳を取ってから娶った坂上郎女とのやりとりはどのようなものであったのか。きっと大伴家持とも面識があった(だろう)。
常に「瀬戸際」に立ち、一見太政大臣として人生を満喫したように見える彼の死には、しかし、「暗殺」の疑いが常に囁かれています。高松塚古墳の主、という説もあります。
そして、次世代、長屋王の絶頂と悲劇、、、
私が、大河ドラマの主人公にしてほしいと思う第一候補です。ということで今回は「高市皇子」イチオシ。
その高市皇子の系譜が「北宮王家」として平安時代まで続いています。1988年3万5000点にものぼる長屋王家木簡が出土し、奈良時代史・奈良時代王貴族の生活を知る大きな手がかりとなりました。長屋王木簡から光を当てた奈良時代の有様を描いたのがこの本です。
8月末、奈良に行く、平城京跡に行く、と決めてから慌てて図書館に注文したせいで、旅行には間に合わず、帰宅してから読みました。読み応えのある本でした。
まず、私が面白いと思ったところ(先日難波宮跡に行ったせいもあって)・・・難波宮孝徳朝の改革(大化の改新)の中心にいたのは、中大兄皇子・中臣鎌足だったと説明されることが一般的であるが、「改革の中心にいたのは孝徳天皇その人であった」という知見。
森さんは、部民制廃止などの孝徳天皇の改革に対し、中大兄皇子はむしろ「抵抗勢力」であり、鎌足に至ってはまだ政治の表舞台には立っていなかった、と論を展開していきます。律令国家創始者としての天智天皇や藤原鎌足の活動記録には、後の世(持統天皇、藤原仲麻呂)の潤色があった、というのです。
そうだろうな。歴史書は真実を語らず、勝者に都合よく編集されますものね。これまで常識とされてきた、「日本書紀」「古事記」などに拠った歴史は歪められた歴史なのです。(しかし、そういう事実が、指摘され、認められてから長い年月が経つのにいまだに「通俗的な理解」が変わらないのはなぜだろう?)
現代の、公文書書換え、改ざん問題は、古い古い「伝統」を引き継いでいるのですね。https://www3.nhk.or.jp/news/special/moritomo_kakikae/
『日本書紀』(事実も書きます)に記載されている、鎌足の具体的な活動は、664(天智3)年から669(天智8)年です。近江宮に遷都(667(天智7)年)後、中大兄皇子が天智天皇として即位したのが668(天智8)年ですから、活動期間は短く、鎌足の事績とされている近江令は存在しなかったと考えられます。
壬申の乱後の、天武持統朝において、名実ともに律令体制が図られ、そこで大きな存在感を放ったのが、高市皇子でした。
その高市皇子の死(696(持統10)年)後、頭角を表したのが、藤原不比等です。
この本では、この二人がどのように権力、財力を手に入れていったのかを明らかにしていきます。それは、奈良時代貴族の家政の形態を明らかにすることにつながっています。
また、この時代における「女性の力」への言及も興味深いものでした。不比等の権力を支えた、犬養橘宿禰三千代後宮女性(宮人)の政治力、深謀遠慮を、著者の森さんは、「不比等をも凌ぐ」と評し、描きます。三千代は、不比等の娘宮子を文武天皇に嫁がせ、三千代自身と不比等の娘光明子は聖武天皇后となるのです。
さて、高市皇子の死(696(持統10)年)を待ったかのように、一年後文武天皇が15歳で即位します。その頃、高市皇子の第一子長屋王は、文武天皇の妹吉備内親王を妻に迎えています。しかし文武天皇は707年、わずか25歳で崩御、その母である元明天皇が即位、さらに715年、文武の姉で(吉備内親王の姉でも)ある元正天皇が即位します。持統天皇、草壁皇子直系の地位継承です。
720年に不比等は死に、その後の政治の中心にいたのが、北宮王家を率いる長屋王であり、藤原家を率いる房前です。
724(神亀元)年文武と藤原宮子との間の首皇子が即位し、聖武天皇となります。727(神亀4)年聖武天皇と光明子の間に皇子が生まれますが翌年夭折します。
728(神亀5)年2月、左大臣長屋王宅は、包囲され、長屋王と吉備内親王、長屋王宅に住んでいた男子たちが死にました。藤原不比等の娘も長屋王と婚姻関係にありましたが、その子どもたちは死を免れています。
737(天平9)年疫病流行により藤原房前をはじめとする、不比等の四人の子は皆死にます。そして、北宮王家の代表となっていた長屋王の弟鈴鹿王と、橘諸兄(三千代とその前夫美努王との子)が太政官運営の中心となります。しかし翌年の藤原広嗣の乱を契機に聖武天皇は関東行幸、遷都を繰り返し、745(天平17)年に平城京に還都するまで彷徨います。
長屋王と藤原長蛾子の子であったために死を免れた、安宿王、黄文王、山背王などはこの間復権し、745(天平17)年、鈴鹿王の死により、安宿王が、北宮王家の筆頭者として財産を継承したと考えられています。
749(天平勝宝元)年には聖武天皇と光明子の娘、孝謙天皇が即位します。
藤原仲麻呂が台頭する中、757(天平宝字元)年橘奈良麻呂の乱が勃発、安宿王は流罪、黄文王は死罪、となります。この乱を一早く密告したのが弟の山背王です。山背王は、藤原弟貞と名を変え藤原氏の一員となります。また鈴鹿王の子たちは、豊野真人姓を賜りました。
764(天平宝字8)年圧倒的な権力を誇った藤原仲麻呂が孝謙太上天皇によって廃され、孝謙は称徳天皇として重祚します(〜770(宝亀元)年)。未婚の女帝の皇位継承者をめぐって疑心暗鬼の時代は続き、平安京遷都を迎えることになります。
後に罪を許され佐渡から帰還した安宿王は、773(宝亀4)年に高階真人を賜姓されています。彼の最期は不明です、が、その子、遠成(757年生まれ)は、遣唐判官として入唐し、空海と出会い、その活躍の基を手助けします。その後高階真人氏は、四・五位を到達点とする中級官人として活躍、地方でも活躍することとなりました。
長屋王木簡研究に長く携わってこられた筆者が、これまでの藤原氏中心の、奈良時代〜平安時代史に、別の光を当てようと書かれた本でした。理解の難しい面もたくさんありましたが、とても面白かったです。没落した貴族が、しかし、したたかに生き抜く姿を浮かび上がらせ、また、女性たちの活躍や悲劇も生き生きと描かれていました。
五月に京都アスニーセミナーで聴講した「長屋王の実像(馬場基さん)」も大変面白かったです。長屋王は穏健派で真面目な坊ちゃん、同父姉妹の中で唯一天皇になっていない吉備内親王の自意識の強さ、という特徴が、古い時代の象徴となり、新しい時代を作る藤原氏と対立していった、という馬場さんの大きなまとめがとても腑におちました。
ということで、私の推し飛鳥人は、高市皇子です。
高市皇子が、長屋王がどのように生まれ育ったのか、いろいろ妄想すると本当に面白いです。
2024年9月7日 白露 朝晩の暑さはマシになりましたが、まだまだ酷暑の只中です。
平安時代、藤原道隆に見染められた高階貴子の娘、定子と、一条天皇との悲恋物語は、当時の人々の心を大きくゆさぶり、清少納言『枕草子』や紫式部『源氏物語』へと結実しました。この「高階家」も高市皇子の系譜だそうです。全く知りませんでした(なぜか森さんの本にはこの点への言及はありません)。