755(天平勝宝7)年は三年に一回の防人交代の年で、家持は難波で防人歌を収集し、その中から万葉集に84首の防人歌を載せました。この時、家持の直属の部下だったと考えられるのが大原今城です。
「家持の喜びと悲しみ〜插頭(かざし)②」
で、大原今城と家持の悲しい別れと、以後万葉集の筆録が失われたこと、について触れました。今回は、大原今城という人についてもう少し掘り下げたいと思います。
万葉集には、「今城王」のちの「大原今城真人」の母である大伴郎女の歌として
雨障 常する君は ひさかたの 昨日夜の雨に 懲りにけるかも(万葉集巻四519)
あまつつみ つねするきみは ひさかたの きぞのよのあめに こりにけるかも
いつも雨を口実にいらっしゃらないあなた。せっかくの昨夜のおいでにも雨に降られてもう懲り懲りとお思いでしょうか。
が、その母である石川郎女(大伴安麿の妻)の歌(518)の次に載せられています。そして大伴郎女(519)の歌の次には「のちの人」の歌が載せられており、「のちの人=家持」と考えられています(万葉集全訳註(一)講談社文庫)。となると、この大伴郎女は、やはり大伴旅人の最愛の妻であり、家持の育ての親(旅人と大伴郎女の間には子はいませんでした。家持の母は多治比家の縁者であると考えられています)であると考えるのが自然ではないでしょうか。高安王との間に今城王を産み、のち離婚、旅人と夫婦になったという尾山篤二郎氏の説が「大伴家持 藤井一二(中公新書)」にあります。全く素人の考えですが、万葉集の並びからはそれが妥当のように感じられます。
大伴郎女という名は大伴家のまとめ役の女性という意味があり、必ずしも一人の女性と限らない、という説があり、また、坂上郎女(大伴旅人の異母妹)が一時大伴郎女と呼ばれていたことを根拠に坂上郎女の初めの夫穂積皇子との間の子、という説もあります。
さて、大伴郎女が離婚した高安王は719(養老3)年時、伊予守でした。万葉集十二巻には次のような歌があります。
おのれゆゑ のらえて居れば あを馬の 面高夫駄に 乗りて来べし (巻十二3098)
おのれゆえ のらえておれば あおうまの おもだかぶだに のりてくべし
あなた自身のせいで叱られているのだから、青馬という面高の駄馬に乗って来るべきでしょう。
「この一首は平群文屋朝臣益人の伝えいうところによると、『昔聞くには紀皇女※(多紀皇女=天武皇女・元伊勢斎宮の誤りと考えられています)が密かに高安王と恋愛をして叱責された時にこの歌を作られた』という。ただし高安王は左遷されて伊予守に任ぜられた。」と詞書がついています。大伴郎女はこの頃高安王と別れたのかもしれません。高安王は左遷されましたが、その後は順調に昇進しており、万葉集に2首の歌が載せられており(625、3952)、2首の歌を贈られていると記載されています(577、3098)。
※紀皇女は軽皇子(のちの文武天皇)の后であったのに、異母兄妹の弓削皇子との恋が原因で廃后されたという説を、梅原猛さんが「黄泉の王ー私見・高松塚ー(新潮文庫)」で書いておられます(この本は、とても面白いです!)。弓削皇子が紀皇女を思う歌が4首万葉集に載せられています。
高安王の息子、今城王は、若かりし頃(養老年間と考えれられます)、妹である高田女王から恋歌を贈られており、その歌が万葉集に6首(537〜542)残っています。
現世には 人言繁し 来む生にも あわむわが背子 今ならずとも (巻四541)
このよには ひとごとしげし こんよにも あわんわがせこ いまならずとも
現世では人の噂がうるさいものです。来世にでもお会いしましょうよ、大事なあなた。今でなくても。
二人の恋が、禁断の恋であったという記録はありません。ということはこの二人は異母兄妹だったのでしょうか。この時代、異母兄妹の結婚はタブーではありませんでした。
高安王、紀皇女、弓削皇子、多紀皇女、大伴郎女、大伴旅人、今城王、高田王女、など、一人一人、一つ一つのエピソードがドラマチックで、想像が様々に広がり、ワクワクします。これが万葉集の大きな魅力ですね。
さて、今城王は、739(天平11)年父高安王とともに臣籍降下し、大原真人姓を名乗ることになります。そして兵部少丞となります。755(天平勝宝7)年2月からの防人歌(万葉集巻二十(4321〜)の連なりの中に今城の名が登場します。上総国朝集使大掾(現在の千葉県北部・行政内容の報告をする使者・第三の地位)として今城が採録した歌が載せられています(4436〜4441)。その第一の歌。
闇の夜の 行く先知らず 行くわれを 何時来まさむと 問ひし児らはむ(巻二十 4436)
やみのよの いくさきしらず いくわれを いつきまさんと といしこらはん
闇夜のように行く先がわからずに旅立っていく私なのに、「いつお帰りですか」と聞いたあの子よ・・・。
防人として遠く難波まで歩いての旅、そこから船に乗って筑紫まで遠い遠い旅です。地名を聞いたとて、それがどこなのかイメージすることは当時の人には難しかったと思います。先の見えない旅から生きて帰ってこれないのではないかという怖れでいっぱいの父に幼子は無邪気に問うのです。父がいない間この子は飢えずに暮らしていけるのだろうか・・・。東国の人々の辛い悲しい思いを今城は伝えたのでした。
続いて、家持宅の宴席での今城と家持の応答が登場します。旧暦5月9日のことです。
わが背子が 屋戸の石竹花 日並べて 雨は降れども 色も変わらず (4442)
わがせこが やどのなでしこ ひならベて あめはふれども いろもかわらず 大原今城
あなたの家の撫子は連日雨が降るのに色が衰えません。
ひさかたの 雨は降りしく 石竹花が いや初花に 恋しきわが背 (4443)
ひさかたの あめはふりしく なでしこが いやはつはなに こいしきわがせ 大伴家持
久方の雨は降りしきる。だのに撫子のますます新鮮な花のように、恋しいあなたよ。
わが背子が 屋戸なる萩の 花咲かむ 秋の夕は われを思はせ (4444)
わがせこが やどなるはぎの はなさかん あきのゆうべは われをおもわせ 大原今城
私の大事なあなたの家の庭の萩の花が咲くだろう秋の夕方には私を思い出してください。
鶯の 声は過ぎぬと 思へども 染みにし情 なほ恋ひにけり(4445)
うぐいすの こえはすぎぬと おもえども しみにしこころ なおこいにけり 大伴家持
(その時鶯が鳴いたのを聞いて)鶯の鳴く季節はすぎたと思うのだが鶯に染まった心はやはり鶯=今城を恋しく思ったことよ。
きゃーまた恋!と感じるかな〜〜〜ここでの恋は、やはり相手を大切に思う心ですね。血の繋がりはありませんが、大伴郎女は今城にとっては実の母、家持にとっては育ての母、同じ人を母と呼び、また、おそらく佐保歌壇に集い、うたう心を持つふたりは強い信頼感で結ばれていたのです。
この年の10月聖武上皇の病が篤くなり、政界には暗雲が立ちこめます。翌年756(天平勝宝8)年、2月、橘諸兄は引退を余儀なくされます。3月、聖武上皇の行幸について難波にいた、式部少丞大伴池主は、兵部大輔大伴家持も参加していた宴で、兵部大丞(つまり家持の直属の部下)大原今城が伝誦した歌を披露します。
蘆刈に 堀江漕ぐなる 楫の音は 大宮人の 皆聞くまでに (巻二十4459)
あしかりに ほりえこぐなる かじのおとは おおみやびとの みなきくまでに
葦を刈るために、堀江を漕いでいる舵の音は、大宮人が皆聞くほどに大きくて驚くことだ。
万葉集の中での、池主と今城の初めてのニアミスがこの場面にあります。池主は今城から聞いた歌、としてこの歌を披露。『あなたたちの「葦を刈る活動=橘家を盛り立てようとする活動」はみんなに知られているよ、気をつけてください。』と読むのは深読みしすぎでしょうか?
しかし、この歌の2首前に置かれている家持の歌、
住吉の浜松が根の下延へて わが見る小野の草な刈りそね(4457)
すみのえの はままつがねの したはえて わがみるおのの くさなかりそね
住吉の浜の松の根が地中密かに伸びているとうに、心密かに私の見ている小野の草を刈らないでくれ。
と合わせて読み、その後の彼らの動向を考えた時、この2首はひそかに橘家、大伴家、多治比家などを盛り立てるために人々が話し合い動いている、その様子を暗喩しており、しかし「刈らないでくれ=動かないでくれ」と言っているように私には思えます。
2ヶ月後、5月10日に大伴家の長老、出雲(=鳥取県)国守大伴古慈斐(おおとものこしび)と内豎(ないじゅ)淡海三船(おうみのみふね=大友皇子・十市皇女の孫・・・この二人の名前が出てくるとまた血が騒ぎます〜〜)は、朝廷を誹謗したとして拘束され、三日後に釈放されましたが、大伴家に大きな衝撃が走ったと考えられます。家持は「族(やから)を諭(さと)す歌」を詠じ(巻二十4465〜7)「祖先の名を絶ってはいけない」と訴える一方で、出家を思い(4468、4469)、また、千年の命を願い(4470)ます。
万葉集では、11月8日に安宿王宅で開かれた宴での出雲守山背王の歌が載せられており(4473)後日それに追和して作った歌として家持の歌が載せられています(4474)。続いて、11月23日、大伴池主宅で催された宴での、池主生前最後の歌(4475)、大原今城の歌(4476)、そして今城が伝誦した4首(〜4480)が配置されています。
初雪は 千重に降りしけ 恋しくの 多かるわれは 見つつ思はむ(巻二十4475)
はつゆきは ちえにふりしけ こいしくの おおかるわれは みつつしのはん
初雪は幾重にも降りしきれ。恋しさの募る私はそれを見ながら恋い慕っておりましょう。
奥山の 樒が花の 名のごとや しくしく君に 恋ひわたりなむ(巻二十4476)
おくやまの しきみがはなの なのごとや しくしくきみに こいわたりなん
奥山の樒の花のように、私はしきりにあなたを恋続けるのでしょうか。
池主と今城。この二人もお互いを大切に「恋」しているのでした。今城の歌にある「樒(しきみ)」は現在でも仏事に使われる常緑樹です。白い可憐な花をつけますが実には毒があります。常緑の葉は神事も使われた、とも言われており、「樒がごとく」の語には「神や仏に誓っても」という意味が言外に感じられます。万葉集中にはこの一首のみに用いられている花です。池主は「雪」に、今城は「樒」に、密約の成就を誓ったのではないでしょうか。
畏きや 天の御門を かけつければ 哭のみし泣かゆ 朝夕にして(巻二十4480)
かしこきや あめのみかどを かけつければ ねのみしなかゆ あさよいにして
恐れ多いことよ。朝廷の事を心にかけると、泣かれてしまう。朝も夕も。
伝誦歌として配置されている4480の歌について「実は今城の新作で伝誦歌を装ったのであろう」「第二句はときの政情の不穏を諷し、池主にそれとなく示したもの」と中西進さんは書いておられます(万葉集全訳註(四)講談社文庫)。この宴席での家持の歌は残されていません。おそらく参加していなかったのだろう、池主と今城は家持をいかに守るか話し合ったのだろう、という藤井さんの考えに納得する(「大伴家持 中公新書」)歌の配置です。
翌757(天平勝宝9)年、正月6日に橘諸兄が逝去。3月4日に大原今城宅で宴があり、家持は
あしひきの 八峯の椿 つらつらに 見とも飽かめや 植ゑてける君 (巻二十4481)
あしひきの やみねのつばき つらつらに みともあかめや うえてけるきみ
幾重もの山の奥に咲くはずの椿だから、椿はつらつらといくら見ても見飽きない、これを植えたあなたは。
と詠みました。そして、この3月聖武天皇の遺言で皇太子となっていた道祖王(ふなどおう)が廃太子となり、4月大炊王(おおいおう=淳仁天皇)が立体子。5月藤原仲麻呂が紫微内相となり圧倒的な実権を握ることとなりました。その後の人事では山背王、大伴家持、大原今城には授位がありましたが、橘奈良麻呂、安宿王・黄文王(山背王の兄弟たち)や大伴古麻呂、大伴古慈斐、大伴池主らにはありませんでした。
6月23日の家持の歌(4483・4484)については以前このブログで取り上げました。
移りゆく 時見るごとに 心痛く 昔の人し 思ほゆるかも(巻二十4483)
咲く花は 移ろふ時あり あしひきの 山菅の根し 長くはありけり(巻二十4484)
6月28日、山背王の密告があり、7月4日、多くの人が捕らえられ拷問にかけられます。黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、大伴池主らは死にいたり、安宿王、多治比国人、大伴古慈斐らは配流、右大臣藤原豊成は大宰員師に左遷となりました。(山背王は兄黄文王、安宿王を裏切ったのです。4473・4474の山背王と家持の応答歌は、この出来事への暗示のようにも考えられます。)
大原今城はこの後家持の大切な友としていくつかの宴席を共にします。そして家持は、758年万葉集最後から二番目の歌(4515)「秋風のすゑ吹く靡く萩の花ともに插頭さずあひか別れむ」を今城に贈り、萩の花を插頭することなく別れを告げ、因幡国へと旅立ちます。万葉集は翌年759年正月一日の歌(4516)「新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重け吉事」を最後に終わることとなります。この最後の歌は、池主の最後の歌(4475)「初雪は千重に降りしけ恋しくの多かるわれは見つつ思はむ」を彷彿とさせます。家持の池主への思い、そして万葉集に綿密に編まれた人々の心の綾が感じられます。
762年1月家持は信部大夫となって帰京。一方今城は763年4月上野国守となり平城京を去ります。約一年の間、二人はやはり宴をともにしたのでしょうか。
それから6年後の、764年9月、藤原仲麻呂(惠美押勝)は反乱を起こし近江国で敗死し、淳仁天皇は淡路島に配流され憤死します。藤原豊成は右大臣となり、道鏡が実権を握りました。この時、大原今城は仲麻呂の乱に連座して官位を剥奪されます。
7年という月日の後、771年光仁天皇在位2年目、大原今城は、罪を赦されて無位より従五位上に復し、兵部少輔に任ぜられます。万葉集の成立はこの頃以後とも言われます。翌772年今城は駿河守となります。しかし774年には山辺王が駿河守となり、今城は以後歴史の表舞台から消えます。家持と同様に、今城もまた、政変に翻弄されつつ、一方で変わらない人の心を表す歌をうたい、収録し、私たちに残してくれた素晴らしい人物でした。
2020.9.12(土)長々と、ここまでお付き合いいただいた皆様ありがとうございました。家持を支えた、今城について、池主について、そしてその周りの多くの人々について、様々な想像が湧き上がり楽しい時間でした。「万葉集を読む」面白さが強く感じられました。
2020.10.16(金)追記しました。万葉集最後の歌が池主へのオマージュを表す歌だと感じたので〜〜そして今城の存在の大きさを改めて感じたので〜〜
参考文献) 万葉集辞典 万葉集全訳注原文付別巻 中西進編 講談社文庫