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K症候群 ユダヤ人を救った謎の感染症(ドキュランドへようこそ)

録画していた、2021年7月23日放送の「ドキュランドへようこそ 選 K症候群 ユダヤ人を救った謎の感染症」をやっと見ました。2020年アメリカ・イタリア制作の素晴らしいドキュメンタリーでした。

1943年9月ローマはナチスドイツに占領されました。ナチスの最優先事項はイタリアの首都からユダヤ人を一掃すること。隠れ場所を求めたユダヤ人を、危険を顧みず、3人の医師(ジョバンニ・ボルメオ、アドリアーノ・オッシチーニ、ヴィットーリオ・サチェルドーティ)が匿っていました。ユダヤ人を救うために、彼らは恐ろしい感染症をでっち上げました。その名を「K症候群」。

1939年ドイツとイタリアは軍事同盟を結び、連合国軍と戦争が始まります。

東ヨーロッパや強制収容所でユダヤ人が殺害されているというニュースは、ローマで暮らすユダヤ人の耳にも届いていましたが、どこか遠い世界の出来事だったのです。イタリアでも1938年に、人種法=ユダヤ人を差別する法律が作られました。ユダヤ人だったヴィットーリオ・サチェルドーティ医師は下級市民として扱われ病院を解雇されました。ローマに、ファーテベーネフラッテリ(良い行いをせよ兄弟たち)という名の病院があり、敬虔なカトリック教徒であり、反ファシストだったジョヴァンニ・ボルメオ内科部長は、ヴィットーリオ・サチェルドーティ医師を病院に迎えました。

1939年5月ドイツとイタリアは軍事同盟を結び、連合国軍と戦争が始まります。1943年7月連合国軍はシチリアに上陸、イタリアは全面降伏しましたが、一方でヒトラーはローマに侵攻し、制圧しました。バチカン市国の元首であるローマ教皇ピウス12世は、難しい立場にありました。教皇は中立の立場を貫き、ヒトラーと何度も会いましたが、何もできませんでした。

反ファシスト活動をしていたアドリアーノ・オッシチーニは精神科医、ナチスに捉えられ、砂袋で殴るという(体に拷問の跡が残らないように)拷問を受けますが、彼はバチカンにコネがあったために教皇の名において解放されました。

バチカンに属していた病院は、イタリアの外だったため、ユダヤ人の医師がいることが可能でした。そしてファーテベーネフラテッリ病院はユダヤ人を助けてくれる、と人々は思いました。同様にローマにはユダヤ人を匿う教会などの場所が多くありました。

9月8日大勢の人が「ドイツ軍が来る」と叫んでいました。病院には負傷者が運ばれてきました。病院には無線機を隠しており、密かにレジスタンスと連絡を取っていました。連合国軍とも交信していました。非合法なラジオや口コミ、秘密のビラなどで情報が流され、秘密の補給物質が隠されました。アドリアーノ・オッシチーニ医師が活躍していました。

ナチス親衛隊(SS)(元々ヒトラーの個人的な警護部隊だったヨーロッパで最も恐れられる残虐な集団)はユダヤ人コミュニティーに身の安全と引き換えに50キロの金を要求し、ユダヤ人はそれに応じました。人々は自分たちが殺されるとは思っていませんでした。しかし10月16日早朝、SSはユダヤ人居住区を襲いました。修道士が「ナチスがユダヤ人を連行している!」と病院に知らせに行きました。1万3000人のユダヤ人のうち1000人以上が連行されました。「逃げなさい!」という母の声に逃げる子供にもナチスは容赦しません。

その後ユダヤ人コミュニティでは結束して、ナチスから逃れる方法を探します。近隣の修道院などは協力しました。そして、ファーテベーネフラテッリ病院に入院させて欲しいと、ユダヤ人が訪れ、医師たちは受け入れます。

この世に存在しない架空の病気「進行がとても早く、頭痛・吐き気をもよおし、神経に異常をきたす、非常に危険な病=K症候群」をボルメオ医師は作り上げます。そして病院の一角を隔離病棟にし、ユダヤ人を収容しました。恐れを知らないSSもこの病気を恐れ、患者をかまうことをしませんでした。病院には常に50人程のユダヤ人が匿われていました。そして、ボルメオ医師は偽の名前が入った偽造文書を作り与え、彼らを修道院に避難させました。ボルメオ医師の友人、バチカン市国の国務長官モンティーニは、ボルメオ医師にローマ教皇の紋章の入った証書(IDは偽でしたが)を渡し、ユダヤ人を救う活動に手を貸していました。また多くの聖職者たちは、バチカンから許可を受けないままにユダヤ人を救おうとしました。

10月16日ユダヤ人が一斉検挙されたことについて、教皇ピウス12世は公には発言しませんでした。教皇になる前にバチカン大使として長い間ドイツに駐在していた教皇はドイツ寄りで、ローマの貴族の出である教皇が反ユダヤの気持ちを持っていたようです。カトリック教会の最高権威であり国家元首である教皇のこの姿勢によりローマのユダヤ人はピンチに陥ります。バチカンは公には何もしなかったのですが、一方裏ではユダヤ人を匿ったのです。

時間が経つにつれ、SSは病院に対して疑いを持ち始めました。中立国バチカンの病院は操作できないはずだが、SSが病院を操作するトラックを派遣しました。小さな男の子がそれを知らせに来たのですが、たまたまトラックが不思議な動きをしたために30分の余裕ができたのです。ボルメオ医師は無線通信機を隠し、隔離病棟にいた全員に黙っているように、咳をするように、と伝えました。そして30分後、到着したドイツ兵をボルメオ医師は自ら病院を連れて回りました。「恐ろしい病気のK症候群の中に入りたければどうぞ」。SSとドイツ人医師は病室に入ることなく去りました。

ナチスの占領が長引き、連合国軍による爆撃投下があり、ローマの人々は恐怖の中にいました。ある日サンロレンツォ地区への爆弾投下により、馬が倒れたとき、人々はその馬の肉を次々と取りに来ました。ドイツの占領下でイタリアの人々は、飢え、孤立し、苦しみ、誰もがナチスドイツを憎んでいましたが、ドイツ軍は強固な防壁を作り、連合国は容易にローマに入ることができませんでした。

そしてとうとう 医師のオフィスが捜索を受けました。SSにより連れ去られたジョバンニ・ボルメオ医師、、、医師たちに打つ手は無くなって行きました。しかし、9万の死者を出しながら4ヶ月をかけて連合国軍は北上進軍し、ナチスドイツはとうとうローマから撤退しました。1944年6月4日連合国軍がローマを解放しました。21年ぶりにローマは人々の手に戻りました。ローマ教皇もローマの解放を祝福しました。

3人の医師、ジョバンニ・ボルメオ、アドリアーノ・オッシチーニ、ビットーリオ・サチェルドーチィはK症候群の偽装をやめ、ユダヤ人たちは病院から出ることになりました。イタリアのユダヤ人のおよそ8割が生き延びました。多くのイタリア人の善意のおかげです。

ジョバンニ・ボルメオ医師「私たちは人類という一つの人種だ。」ボルメオの妻「すごく怖かったけれどあれが私たちの運命だったの。」息子のピエトロは父の功績について本を書きました。

ビットーリオ・サチェルドーチィ「医師になったのは天職だと思ったからです」。戦後もローマのユダヤ人居住区で働き続けました。

アドリアーノ・オッシチーニ医師は戦後もファーテベーネフラッテリ病院で働き、本を著し、上院議員となりました。「私は欠点の多い人間です、でも臆病でないことだけは確かです。勇気を持てば人生は美しい。最後に勝つのは勇気です。」

https://www.nhk.jp/p/docland/ts/KZGVPVRXZN/episode/te/P8X3JRPLM7/

三人の医師、多くのイタリアの人たちの勇気に感服します。名作「ライフイズビューティフル(1997)」でイタリアのユダヤ人をめぐる悲劇を初めて知ったのですが、正直それだけで終わっていた私でした。酷い現実と素晴らしい人々、その後者を知ることは、大きな力を与えてくれます。

一方で「戦争」「虐殺」「弾圧」という行為が生む悲劇が今だに繰り返されている事に事の深刻さや難しさを感じます。オリンピック選手の「帰国したくない」「亡命したい」というニュースも報じられています。彼らの願いが叶うことを願います。

6月にサッカーW杯予選対日本戦で、軍のクーデターに抗議する三本指を掲げ、帰国を拒否し日本に難民申請をしている、ミャンマーのサッカー選手ピエリアンアウンさんは、Jリーグ3部のYSSC横浜の練習生になることが決まりました。

そして、「戦争」「虐殺」「弾圧」は絶対に行ってはいけない、ということを、日本の若い人たちに繰り返し伝えていかなければならないと思います。

2021年8月3日 日本の終戦の月が来ました。