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餅ばあちゃんが教えてくれたこと〜桑田ミサヲさん

94歳にして一回で針に糸を通すミサヲおばあちゃん。自転車に乗り、笹原に分け入り笹の葉を取るミサヲおばあちゃん。500枚!

驚愕の体力気力です。

取った笹を一枚ずつ綺麗に切り、洗い、、、「手間暇かけすぎなんだ。でも自分としては納得しないんですよ。母は言いました。一生懸命やることによって、仕事が仕事を教えてくれるって。その時はわからなかった、でもやっているうちに笹の変化が自然にわかってくる。硬い笹も柔らかい笹もわかってくる。触った感触で枚数もわかる。」

同じ土地の水を吸わせると笹はさらに青く美しくなります。

赤い長靴はミサオさんが倒れた時にわかるように・・・との息子さんの気持ち。

ミサヲさんは小豆も畑で作っています。取材の年は日照りが強く雨不足で、小豆のできが良くありませんでした。でも悪いなら悪いなりに煮立てず時間をかけて水を含ませ、極上の小豆を炊くのです。

炊き上がった小豆を、「まてだな」(丁寧にやってるんだな)と言いながら、丁寧に丁寧に濾していきます。

和菓子では滑らかなあんこを使いたいので小豆の皮を入れないようにしているのが通常。和菓子職人の松坂駿さんは、皮を入れて、なおかつ滑らかなあんこを、手間暇かけて作るミサヲさんに衝撃を受けたと言います。そんなミサヲさんにお会いして和菓子職人としての迷いが吹っ切れたそうです。

「1日やって千五百円くらいしか儲けがないそうです。食べるだけ、でもいいんです。」

あんことお砂糖と米粉を合わせて蒸しただけの素朴な餅をちぎって、一つずつ丁寧に丁寧に笹にくるんでいきます。人を喜ばせたいという気持ちがこもっています。あんこを包んだ笹をもう一度蒸します。熱々の出来上がりをミサヲさんは素手で並べていきます。手袋はしない。何かおかしかったらすぐわかる。

「この10本の指さえあればお金には困らない。母からもらった宝物です。」

「なんとか生きて来たんだな。貧乏だったからさ。母はよくあんなに働いて私たちを育ててくれたんだな。私が母のお腹にいる頃に父は亡くなったのです。」体の弱いミサヲさんに生きて行くための術を母から学びました。「学校に行くより母から裁縫を教えてもらうのがすごく楽しかった。」

終戦の翌年、19歳で地元の男性に嫁ぎ二人の子供を授かりました。貧しさに追い立てられるミサヲさんを母は奮い立たせます。「子どもを育てるのはなんぼうたて(大変)ばな」と言ったら、「ふーんミサヲなんぼ偉いかな(そんなに偉いのか)。4人の子どもを育てたけれどうたてと思ったことはない。」と。母の苦労を知っていながらなんてことを言ったんだろうと後悔したその時以後、ミサヲさんはさんは愚痴を言うのをやめました。

「60歳の時特別老人養護ホームができた時に、笹餅を持って言ったら、おばあちゃんが涙を流して喜ばれた、なんて今日いいことをしていたんだろう、お餅一個で喜んでもらえる、こんなに喜んでもらえる、一生やっていこうと思った。私にもできるんだって。」

小豆を自ら育て、香りの良い笹を求めて山へ。息子の清次さんは「そんなもんやめろ。利に叶わない」と言ったけれど「自分で作ったものを人が喜んでくれるならそれでいい」と、「お袋がやりたいって言うものだから親孝行かな」。

皆が美味しいと言ってくれてももっともっと研究しなくちゃと思う。79歳の時、乗客の減少に苦しむ地元の鉄道から笹餅の車内販売を依頼されました。みんなが待っているミサヲおばあちゃんの笹餅は、あっという間に売り切れます。

「母と二人で草取りに行ってお昼ご飯食べたあと眠ってしまい、起きたら母が一人で草取りしていた。いいんだね、ミサヲの寝顔あまりにめごくて(可愛くて)起こすのもったいなくて寝かせておいたんだね、と言われた、それを思うと今でも涙が出ます。」

冬、ミサヲさんはてんやわんやでくたびれています。息子の嫁さんの具合があまり良くない、、、抗がん剤注射しているのです。ミサヲさんは電話が鳴るたびに介助のため母屋に向かいます。お嫁さんの痛いところマッサージしてあげた指は痛みます。47年間ともに暮らして来た義理の娘にミサヲさんは「変わってやりたい」と思いながら看病をします。それでも、容体の落ち着く合間を縫って、夜中2時半から起きて餅作りを続けていました。

「疲れないといったら嘘になるけれど、こう仕事でもあるから張り合いになる。なければすごく落ち込んでいると思う」と指を動かし、取材の人におにぎりを振る舞います。義理の娘さんは「おばあちゃんおばあちゃん」とミサヲさんを頼りにします。「こんな多忙な90歳っているかしら。おにぎり美味しかったって」。そして、また餅作りに戻るのです。ミサヲさんの手はいつものように丁寧に丁寧に餅をちぎり、笹にくるんでいきます。餅作りが終わります。「全身を使っているのよ私は」と笑顔。「はい今日はこれで終わりでございます。皆さん大変ですね」と取材の人たちをねぎらうミサヲさん。

その後新型コロナウィルスの拡大により取材は中断しました。

2021年夏、ワクチン接種を終えたミサヲさんの元に取材陣は向かいます。ミサヲさんは94歳になっていました。梅に塩をまぶしています。「4〜5日干してしそ入れて色付けして梅干になるのさ」と。丁寧にお弁当を作ります。「仏様が食べるの。豪華に。お盆の中日は特別の日でしょう。」義理の娘やすこさんはミサヲさんに看取られ亡くなりました。「なんの悔いもない。私にできることはやってしまったから。」長く生きるほどに別れが増えていきます。

ミサヲさんは店におろす笹餅の数を減らしていました。赤い長靴はそのままです。相変わらず自転車に乗り、山に入り笹の葉を取ります。「息子に言わせれば、何もやる必要がないのに、、、そう思うでしょ。」壊れた製粉機の修繕を頼んだ時、「やめようと思っている。自分の体の限界もあるし花でもいじって好きに暮らそうかな。」というミサヲさんに「やめるな、やってろ。心細くなってしまうよ、やってろ。」という修繕にきた人が言います。清次さんもそれを聞いています。

庭で採れたトマトを長芋素麺に入れて、いかやナスやの手作りの食べ物を取材の人に振る舞うミサヲさん。「何をやっている時が楽しいですか?」の質問に「何かを作ることによって、新しいことを作る、ああこういう食べ方もあるんだなあ、と考えること。5年経ったら100歳なんだな、5年ってあっという間なんだな。自分の力でどれくらいやれるものかやってみとうという気持ちでやったことで、あっという間に90歳過ぎた。すごいなあって。」

10本の指で紡いで来た94年のミサヲさんの人生。その目はまだ前を向き、その手は丁寧に笹餅を作り上げています。ねぶた祭り、五所川原鉄道、津軽三味線、その地の風景や音と、ミサヲさんの姿は見事に交錯します。ずらりと並ぶ笹餅の美しいこと。

秋、赤い長靴(新しい!)を履いてミサヲさんは山へ向かいました。山が大好きなミサヲさん。山からなんでも取ってきて食べさせてくれた、母と何度も訪れた。可愛いキノコや山菜がミサヲさんを迎えます。ミサヲさんは一気にテンションが上がって元気になります。「この場所で待っていてくれたんだ、と思って嬉しい」と。山に分け入るほどに子どもにかえるミサヲさん。山の大きな木の下の祠にお供えをしてミサヲさんは母と語ります。空や巨木と交信します。

餅ばあちゃんが教えてくれたこと。「わからないということは幸せなことよ。そういう気持ちで人生送っていればきっといいことがあるわよ」

ミサヲさん、素晴らしい!ETV特集 選 4月16日(土)午後11時からの番組でした。

笹餅私たちにも作れるかな。作って見たいです。

https://www.aba-net.com/hitoshinashokudo/archives/317

ミサヲさん3月には笹餅作りを一旦中断したそうです。6月からの再開を期しているそうです。

https://www.asahi.com/articles/ASQ3B6TPTQ3BULUC00H.html

2022年4月 穀雨

プロフェッショナルの技いただき! 笹餅作りのミサオおばあちゃん火曜日夜10時から、再放送火曜(月曜深夜)0時15分からの、 NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」が好きでよく見ます。 前...