七夕や 今や別るる 天の川 川霧たちて 千鳥鳴くなり 紀貫之 新古今秋上327
たなばたや いまやわかるる あまのかわ かわぎりたちて ちどりなくなり
七夕は、今、いよいよ別れるのであろうか。天の川には川霧が立って、千鳥の鳴いているのが聞こえる。(川霧の中から聞こえる千鳥の声が、おのずから、織女星の忍び泣きを思わせるよ。)
別れの悲しみに涙する牽牛と織女の姿を彷彿とさせる歌ですね。この時期の雨を催涙雨と呼ぶそうです。この歌は新古今集に載せられています。古今集には七夕の歌は十首のみ、「秋風」とセットになることが多く、むしろ新古今集に牽牛織女のイメージを織り込んだ歌が載せられているということです。https://wakadokoro.com/learn/
紀氏は武人の家系で、奈良時代、橘諸兄政権の下で麻呂(まろ)が中納言になっています。道鏡を偏愛した称徳天皇が崩御後、光仁天皇となった天智天皇系の白壁王の母が紀諸人の娘だった事で外戚となり、桓武天皇まで、政権の中心に存在することとなりました。大伴家と同様、征夷や、征東大使(788年)として活躍した紀古佐美がおり、また、貫之の直系の祖紀船守は764年恵美押勝の乱(この時家持は薩摩守)制圧の功により武人として出世し、791(延暦10)年に大納言となりました(家持は785年死去)。しかし、866年伴善男(大伴氏です)の応天門の変に加担したとして紀夏井は遠流となります。これにより大伴氏は完全に没落し、邪魔者を除いた藤原良房により藤原氏全盛の時が来ます。紀氏が将来を託した惟喬親王が失意の中出家した872年前後に紀貫之は生まれました。
とはいえ、貫之10代半ばは、宇多天皇の親政が行われ、菅原道真が重用され、貫之自身は「衰退する紀氏」という自覚を持たなかっただろうと考えられます。901(延喜元)年道真は失脚します。貫之おおよそ30歳の頃で、この頃以後、醍醐天皇のもとで古今和歌集の編者として貫之たちが活動しはじめたと考えられています。
「古今和歌集仮名序」は、公の文章の中で初めてひらがなが用いられたということ、その和歌の素晴らしさを明るく主張する歌論の素晴らしさで有名です。宮廷歌人のリーダーとして順調に進んでいった貫之は、その後訪れる失意の時代を予想だにしていなかったと考えられます。
家持と重なるような重ならないような〜〜〜それは当たり前のことですが、紀貫之という人についてもまた折々に触れていきたいと思います。
参考文献 紀貫之 目崎徳衛 吉川弘文館
紀貫之 村瀬敏夫 新典社
2020.8.26(水)23時 上弦の月は沈みました。