manabimon(まなびもん)

大伴家持と紀郎女〜戯歌恋歌〜万葉の花④合歓(ねむ)

友人からの花便り、ねむのきです。

不思議な花ですね。煙るような花。長く伸びているのが雄しべで花弁は雌しべの中に隠れています。葉っぱをポケットに入れると自動的に折り畳むのがこれまた不思議で、遠い国からやってきた不思議な木、というイメージが私の中にはありました。が、本州以南に古くから自生しているそうです。

夜になると葉を重ね合わせて眠ったようになることから、「ねぶ」の木と呼ばれるようになったとのこと。眠らないと合歓の木は死んでしまうそうです。漢語「合歓木」とは「男女が共寝して相歓び合う」という意味を持ちます。

昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓の花 君のみ見めや 戯さへに見よ

(ひるはさき よるはこいねる ねむのはな きみのみみめや わけさえにみよ)

紀郎女(女郎)(きのいらつめ) 万葉集 巻八 1461

昼は美しく咲き、夜は葉を合わせて好きな人に抱かれるように眠る合歓ですよ。そんな花を主人の私だけが見ていいものでしょうか、お前さんも御覧なさい、一緒に見ましょう抱き合いましょう。

おそらく家持22歳の頃、紀郎女が家持に合歓の木を切り添えて送った歌です。紀郎女は家持よりも10歳ほど年上で、紀朝臣鹿人(きのあそみかひと)の娘で名を小鹿(おしか)といい、天智天皇の曽孫である安貴王の妻でした。二人の交渉は家持16歳の頃まで遡れるそうで、妻の大嬢以外でこのように長い間やり取りをした女性は(記録から分かる範囲では)彼女だけ、多くの歌が万葉集に収められています。この歌で、彼女は自身のことを「君=主人」と呼び、家持を「戯奴=年少の召使」と呼んでいます。

家持の返歌

吾妹子が 形見の 合歓木は 花のみに 咲きてけだしく 実にならじかも

(わぎもこが かたみの ねぶは はなのみに さきてけだしく みにならじかも)

大伴家持 万葉集 巻八 1463

あなたがくださった合歓は花だけ咲いて、おそらく実を結ばないのではありますまいか。あなたのお気持ちは口先だけで本気ではないのでしょう。

家持はちょうどこの頃(740年)、坂上大嬢との恋を実らせ妻としたと考えられます。そんな家持に対して、紀郎女は、本気の恋の歌というよりは社交的な駆け引きを楽しむ歌を贈ったのです。家持を恋した(と思われる)女性たちの歌が万葉集に多く載っていますが、それらの多くが家持の返歌を伴いません。紀郎女は例外的な存在で、つまり特別な存在でもあり、また、妻の坂上大嬢に対しても堂々とそのやり取りを明かせる相手でもあったのでないでしょうか。

この歌は実は万葉集には次のような四首連続で載せられています。連続で読むとこの歌のやりとりが戯れ歌であることがよくわかります。戯れ歌ではあるけれど、何処かに恋?の香りも漂わせているというところでしょうか。

紀郎女の大伴宿禰家持に贈る歌二首

戯奴がため 我が手も すまに春の野に 抜ける茅花そ 食して肥えませ(わけがため わがてもすまに はるののに ぬけるつばなそ めしてこえませ) お前のために手を休めずに春の野で抜いた茅花ですよ。食べてお太りなさい。 1460

昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花 君のみ見めや 戯奴さへに見よ(ひるはさき よるはこひぬる ねぶのはな きみのみみめや わけさへにみよ)昼は美しく咲き、夜は葉を合わせて好きな人に抱かれるように眠る合歓ですよ。そんな花を主人の私だけが見ていいものでしょうか、お前さんも御覧なさい、一緒に見ましょう抱き合いましょう。  1461

大伴家持の贈り和ふる歌二首

我が君に 戯奴は恋ふらし 賜りたる 茅花を喫めど いや痩せに痩す(わがきみに わけはこうらし たばりたる つばなをはめど いややせにやす)この召使いはあなたさまに恋をしているようです。いただいた茅花を食べても痩せていくばかりです。   1462

吾妹子が 形見の合歓木は 花のみに 咲きてけだしく 実にならじかも(わぎもこが かたみのねぶは はなのみに さきてけだしく みにならじかも)あなたがくださった合歓は花だけ咲いて、おそらく実を結ばないのではありますまいか。あなたのお気持ちは口先だけで本気ではないのでしょう。   1463

茅花はこれです。

以前散歩した時に母がこれを見て、小さい時にもっと青い柔らかい茅花をよく食べた、と言っていました。よく見るとあちらこちらに美しい銀の穂を靡かせています。食べる茅花と合歓の木と、今の感覚では少し時期がずれるように思うのですが、平城京ではどうだったのでしょうね。

この歌が歌われる三年前、737年日照り続きの中に、疫病が流行、参議民部卿藤原房前、中納言多治比県守、右大臣藤原武智麻呂、橘佐為、参議式部卿藤原宇合など多くの官人が亡くなりました。万葉集の代表歌人として有名な山部赤人もこの病で亡くなったのかもしれないようです。そして、この大疫の後に台頭したのが、橘諸兄(橘奈良麻呂の父)です。家持は諸兄と関係が深く、のちに万葉集第十九巻を橘諸兄に献上したともいわれています。諸兄が右大臣に昇進した738年七夕に家持は天の河を仰いで歌を詠じています(これは後ほど)。秋、諸兄の息子奈良麻呂が催した黄葉(もみじば)の宴での歌が万葉集に残ります。この時に、前回「万葉の花③桃」でお話しした、大伴池主も登場するのです。大伴家は橘諸兄との関係の中政治的に追い風を受けることになります。

家持は、739年に妾を亡くし、その後大嬢との往来を再開し、正式に妻とします。その740年ごろに紀郎女と交わされた歌が上記の四首です。

そして、740年8月大宰少弐に左遷されていた藤原広嗣は、諸兄政権内で発言権を増す唐帰りの僧玄昉と吉備真備を排斥することを朝廷に上表し、不備に終わると9月に反乱を起こします。聖武天皇は都に異変が勃発することを恐れ、避難のため平城京を離れて迷走をはじめます。伊賀、伊勢、美濃、近江、を経て山背国(やましろのくに)に入り、12月に恭仁京(くにのみや)へ行幸し、新しい都の造営をはじめました。家持は内舎人として恭仁京に勤務、平城京に残る妻や弟に贈った歌が万葉集に多く収められています。恭仁京も長くは続かず、紫香楽宮や難波京へと、聖武天皇の迷走は続きます。

今回取り上げた紀郎女との贈答歌は、青年家持が橘諸兄の庇護のもと、前途洋々の輝く未来を思い描けていた時期の最後のあたり、藤原広嗣の乱の直前のものです。

万葉集巻四には家持と女性たちとの相聞歌が多く載せられています。多くは女性側からの歌ばかり(家持嫌なヤツ?)。そんな中、家持が紀郎女に贈った歌は多く載せられています。その中から下のものを選んでみました。上記の歌で家持のことを召使い呼ばわりしていて紀郎女って嫌な女!と思われた方もおられるかもしれませんが、家持の方から自分を下僕として歌っていることがわかります。こんな風に軽いやり取りを、そして実は(長くなるので止めておきますが)切実な恋の歌も彼女は残しています。

大伴宿禰家持紀郎女に贈る一首

うづら鳴く 故りにし郷ゆ おもへども 何そも妹に 逢ふ縁も無き(うずらなく ふりにしさとゆ おもえども なにそもいもに あうよしもなき)うずらのなく古びた里にいた頃からずっと思い続けてきたのに何故あなたに逢うきっかけもないのでしょう。 765

紀郎女、家持に報へ贈る歌一首

言出しは 誰が言なるか 小山田の 苗代水の 中淀にして(ことでしは たがことなるか おやまだの なわしろみずの なかよどにして)先に言いよったのはどなただったかしら。山あいの苗代の水が淀んでいるように途中で途絶えたりしてつれない人。 766

大伴家持、また、紀郎女に贈る歌五首

我妹子が やどの籬を 見にいかば けだし門より 帰してむかも(わがいもが やどのかきねを みにいかば けだしもんより かえしてむかも)あなたのお住まいに張り巡らした垣根、大変な垣根だそうですが、それを見に行ったら、もしかしたら門から追い返されるのではないでしょうか。 767

うったへに 籬の姿 見まく欲り 行かむといへや 君を見にこそ(うったえに かきねのすがた みまくほうり いかんといえや きみをみにこそ)なにを一途に垣根の様子、そんなものを見たさに行くものですか。あなた様(君と言うことで自らを相手の下男に見立てる)におあいしたいから行くのです。778

板葺の 黒木の屋根は 山近し 明日の日取りて 持ちて参ゐ来む(いたぶきの くろきのやねは やまちかし あすのひとりて もちてまいいこむ)神のために板葺きの黒木の屋根を造るのなら幸い山も近いことですし私が明日にでも採って持って参じましょう。779

黒木取り 草も刈りつつ 仕へめど いそしきわけと ほめむともあらず(くろきとり くさもかりつつ つかえめど いそしきわけと ほめんともあらず)黒木を採りかやまで刈ってお仕えしたいのですが、よく働く小僧だと褒めてくれそうにありませんね。神に仕える巫女様では感情を示してくれそうにありませんね。780

ぬばたまの 昨夜は還しつ 今晩さへ われを還すな 路の長道を(ぬばたまの こぞはかえしつ こよいさえ われをかえすな みちのながてを)昨夜は私を虚しく帰らせたね。今夜まで同じように私を帰さないでくれ。ここまで長い道のりなのに。781

最終首で、それまでの滑稽味あふれる歌から一転して男から女への恋の思いを告げます。しかし、この五首への紀郎女からの返歌はありません。家持は振られたのかな・・・

(追記)

平舘英子さんは「はじめて学ぶ 日本女性文学史 古典編(ミネルヴァ書房)」(はじめて?かなり専門的に感じるのですが)で、この、紀郎女らの歌について次のように書いておられます。「女性歌人達は公的な場でこそ歌わないが、ことばへの意識は高く、主体的に歌による社交的な駆け引きを楽しみつつあるとも言える。」

家持がこれらの歌を残していてくれたおかげで、妻問婚の女たちは「ただ待つ女」だった、のではないことがよーくわかります。女性の主体性を大切にしてくれた家持さん(当人はそういうことを意識していたんだろうか。それってひょっとして当時は当たり前のことだったんではないだろうか?)家持さんありがとう!!

万葉集に残ったのは家持周辺の女性達に限定された姿ですが、これは一般化できるものなのかどうか?でも防人歌や東歌などからも女性がただ待つだけの存在ではなかったとうかがうことができます。そもそも「詩歌を詠む」という行為は主体性無くしてはできないものでしょうね。

合歓の花。一つ一つ美しいです。

2020.水無月.27