万葉集の時代を襲った感染症の大流行を、今コロナのパンデミックに直面している私たちはどのように読み解くか? 今朝のNHKBs1「英雄たちの選択」では橘諸兄を取り上げ、興味深かったです。https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/
735(天平7)年初秋九州太宰府で天然痘発生。大宰府から九州全域〜長門〜大倭(やまと)〜紀伊〜若狭などに広がった第一波が一旦収まった後も、第二波(これには麻疹の感染流行も重なったと考えられるそうです)の犠牲者は100万人から150万人、当時の国民の3分の1が亡くなったといわれます。「生水は飲むな」などの予防のためのお触れや、あちらこちらで祈禱が行われた時に使われた木簡が平城京跡から出土しています。時の天皇、聖武は、吉野行幸を行い、祈禱を行います。
パンデミックの中、人々の生活も変わっていきます。食器は大きなものから小型のものに変わっていったことが出土品よりわかるそうです。個々に食器を使うことで感染の予防を行ったのです。また灯明皿が沢山出土しています。灯りをたくさん並べて燃灯供養を行ったのです。(オンラインの多用、マスク着用、アマビエの流行・・・と私たちの生活も変わりましたね。)
737(天平9)年には、藤原4兄弟死去。公卿八人のうち五人が死亡するという異常事態となりました。政治行政がストップしてしまったのです。14世紀ペストの流行により教会の権威が失墜し宗教改革に繋がったように、この天平時代の疫病の流行で天皇中心の宗教国家日本は根幹から揺るぎ大ピンチに陥ったのです。聖武天皇はひたすら仏教の力にすがろうとします。
737(天平9)年秋、天然痘は収束し始めました。この時に聖武天皇から抜擢されたのが橘諸兄(葛城王)。彼の政治は次のようなものでした。
1、農民の負担を軽減し、国の財源を確保した。(貴族や豪族が高い利息で行っていた種籾の貸付を国が低い利率で行い回収することにした。)
2、国防より産業復興を選んだ。(当時は新羅との関係のために軍団が全ての国に置かれており、農民が徴用されていたが、軍事上必要でない国の軍団を廃止し農業に専念できるようにした。)
3、行政組織のスリム化を図った。(小郷を廃止し、郡司を減らし、国司と郡司の二重行政を無くした。)
740(天平12)年9月藤原広嗣の乱が起こり、10月聖武天皇は「思うところがありしばらく関東へ赴く。やむを得ぬ事情がある。」と壬申の乱時の天武天皇の進軍コース(伊勢〜伊賀〜美濃〜近江)を辿り、新たな都、恭仁京を造営し、以後五年間平城京には戻りませんでした。天皇には「平城京での嫌な出来事から避けたい、新しいところへ移りたい」という気持ちがあり、それを推進したのは橘諸兄だろうと考えられるそうです。恭仁京は橘諸兄の本拠地でした。741(天平13)年、聖武天皇は鎮護国家を目指し「国分寺国分尼寺造営」を各国に命じました。これは国民に多大な負担を強いるものでしたが、天皇は「金光明最勝王経」というお経をよんだことがきっかけで天然痘が治ったと信じていたので、矛盾を感じることはなかったのです。そんな天皇の現実離れした願いを実務家の諸兄が実現していくという構図がこの時代の政治だったと番組では語られます。
諸兄は、光明子と父違いのきょうだい。高い教養を持ち美しい字を書く。酒癖が悪いという弱点もありましたが、聖武天皇の夢想を現実のものにしていく力のある人だった、それがゆえにストレスも抱えていただろうとのことです。
諸兄は土地制度の改革を考えます。645年大化の改新(乙巳の変)で「すべての土地と人民は国家のもの」と定められたが、現状と合わなかったため、50年後701年「班田収授法」が定められ、国民一人一人に土地が与えられることとなります。しかしそれも上手くいかず、20年後723年に「三世一身法」三代に限り私有化を認めたのですが、三代で返却しなければならないので開墾意欲は湧かず耕地は増えなかったそうです。
諸兄は、「土地を私有化すれば人々の開墾意欲は高まって国は活気付くだろう」しかし「土地と人民は国家のものという国家の原則は変えられない」という二つの考え方の間で葛藤します。
天平15年「墾田永年私財法」が施行されます。諸兄は、土地の私有を認めることで税収入の確保を目指したのです。これはこれまでの律令国家のあり方を大きく変える大変革でした。しかしこの法案は古代国家の基盤を安定させるために必要だったと考えられ、その後の日本の歴史の根となる法案だったとのことです。そしてこの法律の出し方は、強権発動ではなく民にお願いして危機にたち向かおうとする今の状況と似ている、という発言もありました。
聖武天皇は新たな都紫香楽宮で、仏教の威力をあらわす大仏建立を目指し詔を出しますが、橘諸兄は国費を大きく消耗する大事業「大仏建立」に対して疑問を持っていたと考えられます。745(天平17)年、紫香楽宮では不審火が相次ぎます。人々の不満が大きくなっていたのです。大地震が起こり、5月聖武天皇は5年ぶりに平城京に戻りますが「大仏建立」への情熱は止むことなく、752(天平勝宝4)年大仏開眼法要が営まれました。756(天平勝宝8)年5月聖武天皇崩御、757(天平勝宝9)年1月橘諸兄逝去。
パンデミックの後、国を復興させるために手を取り合っていたはずの二人でしたが、結局民を苦しめる結果になった「京の造営」「大仏建立」に至ってしまった。天皇はひたすら理想を追いかけ、諸兄は実務家として苦労しながらその実現を画策したのでした。きっと諸兄は「やれます。しかし具体的な方法はこうやらないと実現しませんよ、陛下」と繰り返しただろうと番組では語られます。パンデミックで国力が落ちた時、「どのように国民全体が希望を持ってその危機に立ち向かえるのか」を考え、実務家として法律の整備をしていった、という橘諸兄の一面に触れることのできた番組でした。
令和の宰相菅総理大臣は今何を考えているのでしょうか。
さて、万葉集で諸兄の姿を追いたいと思います。万葉集巻20、755(天平勝宝7)年11月28日に諸兄の息子である橘奈良麿宅の宴で詠まれた歌が、記録に残る諸兄最後の歌です。
高山の 巌(いわお)に生(お)ふる 菅(すが)の根の ねもころごろに 振り置く白雪 左大臣橘諸兄(4454)
高山の岩に生える菅の根のように、ねんごろに十分に降り積もった白い雪よ。
なぜか、万葉集にはこの続きに諸兄の若い頃の歌が続きます。729(天平元)年、人々に口分田を与えたとき、使者葛城王が山背国から命婦(歌を作る能力のある五位以上の女官)らのところに送った歌として
あかねさす 昼は田賜(た)びて ぬばたまの 夜の暇(いとま)に 摘める芹子(せり)これ 葛城王(かつらぎのおおきみ)(4455)
あかね色を帯びる昼間は田を与えて、ぬばたまの真っ暗な夜の間、公務の暇に積んだ芹ですよ、これは。
この歌には送った女官からの返歌もあります。
大夫(ますらを)と 思へるものを 大刀(たち)佩(は)きて かにはの田居(たい)に 芹子(せり)そ摘みける せち妙観命婦(みょうかんのみょうぶ) (4456)
あなたは大夫だと思っていたのに。太刀を帯びてかには(山背国の地名・現在の京都府相楽郡棚倉町)の田んぼで芹を摘んでいらしたのですか。
この二首を左大臣橘諸兄となった当の葛城王が口吟した、と詞書があります。実直に公務を積み重ねてきたことへの自負の思いが、口吟した四半世紀前の若い(といっても壮年の)頃の歌からも、晩年の歌からも伺うことができます。菅の根が深く岩の中に根を張るように、少しずつ降っては積もった白い雪はとても美しい、そんな風に彼自身も世の人々のための仕事を積み重ねてきたのです。その仕事が「班田」だっということ、そこに彼が誇りを持っていたこと、だから、諸兄最後の歌として万葉集に載せられたこと、は、今朝の番組「英雄たちの選択」の内容と重なってよく理解できます。
番組の中で、磯田さんが、他の人と比較して諸兄の署名の字の美しさを挙げて褒めていた時、字の上手さと人格や実務能力とが結びつかずピンとこなかったのですが。ここまで考えてきてようやく磯田さんの言葉の意味がわかったように感じます。
芹は数少ない日本原種の野菜の一つで春の七草としても私たちには身近です。若いときの茎と葉を収穫して、古くから薬効のある冬のとして親しまれています。そんな芹を、真っ暗な夜、葛城王が摘んでいた姿(もちろん誇張があると思いますが)、その芹を平城京の思い人にいち早く送った姿(勝手な想像です)、を思うと、頬が緩みますね。
家持の筆録した万葉集第19巻は、753(天平勝宝5)年橘諸兄に直接献上されたと考えられています。橘諸兄は「万葉集」を編纂しようと意図していたのです。実務的な仕事だけでなく、このように文化的な仕事にも大きな力を発揮していた才人だったのですね。
諸兄最後の歌が載る万葉集第20巻は、753(天平勝宝5)年から759(天平宝字3)年までの「家持歌日記」で防人の歌も取り込まれています。家持の盟友・大原今城(おおはらいまき)自身が筆録したと思われる資料が元になっているらしいということです。今城は、家持のこと、そして諸兄のことについても深い理解を持っていたのだと改めて感じます。
(これまでにブログにあげた諸兄のこと、今城のこと、ぜひ読んでみてください!)
2021年5月5日(水) こどもの日。今日は暦の上では立夏ですが、今朝はまだ寒さを感じます。今日も日本中雨のようです。恵みの雨となりますように。