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民族共存へのキックオフ〜オシムの国のW杯/オシム 終わりなき闘い

2022年5月、イビチャ・オシムが80歳で亡くなりました。2006年サッカー日本代表の監督となりましたが、翌2007年に脳梗塞で倒れ、2008年6月〜12月アドバイザーとして復活、日本のサッカー界に大きな影響を与えました。2014年には、多大な困難を乗り越え、祖国ボスニア・ヘルツェゴヴィナをのW杯ブラジル大会に導いたという偉大な人物です。

2022年11月20日からサッカーW杯カタール大会が行われ、日本代表が活躍したことは記憶に新しいですね。このW杯に連動して(だと思います)、NHKスペシャル「民族共存へのキックオフ〜オシムの国のW杯」(2014年6月22日に初回放送)が、2022年11月24日に再放送されました。

https://www.nhk.or.jp/special/detail/20140622.html

2015年1月NHK出版から出版された木村元彦さん著「オシム終わりなき闘い」(現在は文庫本になっています)が、この番組のベースになっています。

https://www.shogakukan.co.jp/books/09406519

私は、まず本(「オシム 終わりなき闘い」)を読んでから、NHKスペシャル「オシムの国のW杯 民族共存へのキックオフ」をみようと思いました。しかしこの本、一読しただけではとても内容を掴み切ることができない・・・それで番組をみることにしました(11月に放映された番組でしたが何やかやで、みることができたのは2月でした)。

旧ユーゴスラビアは、チトー大統領死後、民族主義が台頭し、紛争が起こり、1991年から10年にわたり内戦状態となりました。三つの民族(セルビア・クロアチア・ムスリム)が戦い、20万人もの犠牲者が出ました。

その対立と憎悪を乗り越えて、2014年オシムはチームをW杯に導きました。6月15日、まもなく始まる世界との闘いに、ボスニアの首都サラエボは高揚感に包まれていました。人口390万の小さな国が激戦のヨーロッパ予選を勝ち抜いたのです。オシムはアルゼンチン戦のTV観戦の輪に参加します。皆は拍手でオシムを迎えます。

「サッカーは人と人を結びつけるものだ。」「長い間何をやっても成功を手にすることができなかった。特にあの戦争の後全てが荒廃した中で誰もが一生貧困が続くと考えていた時サッカーが救いとなった。」(オシム)

一方でサッカーは人と人を引き裂くこともあります。25年前、多彩なタレント揃いのユーゴスラビア監督としてW杯イタリア大会に出場したオシム。5つの民族、6つの共和国からなるモザイク国家ユーゴスラビアは、当時、民族主義が高まり、分離独立運動が激化、サッカーは民族の代理戦争と化し、スタジアムでは民族主義を掲げるサポーターの暴力事件が頻発していました。ユーゴ代表選手を選ぶ際にも民族の利害がぶつかり実力で選手を選ぶことが難しくなっていました。しかしオシムは、民族主義者の圧力をはねのけ、実力で代表選手を選び、ユーゴ代表をW杯に導きました。

オシム率いるユーゴ代表は快進撃を続け、準々決勝でアルゼンチンと闘います。「敵対するのではなく民族間に友情があることを示したかった」とオシムは語ります。連携した守備でマラドーナを封じ込め、ゴールに迫りますが、PK戦となりました。「PKを蹴りたいものはいるか?」と尋ねたオシムに皆躊躇しました。「クロアチアの海岸線ではすでに衝突が始まっていて、誰かが死んだり怪我をしたという知らせが入る中で平常心を保つことはできなかった」とオシムは言います。「疲れ、恐怖心があった」と当時を振り返るストイコビッチは、この時PKを外しました・・「とても悲しかった」。

あの時の試合のことを聞かれ「父が死んだ時と同じ」と答えるオシム。この後民族の亀裂は急速に深まり、ユーゴスラビアは内戦に突入、とりわけボスニア内での戦いは凄惨を極めます。民族の対立に絶望したオシムは代表監督を辞任しました。

その後ユーゴは、スロベニア、クロアチア、などに分裂。しかし三つの民族(セルビア正教のセルビア人、カトリックのクロアチア人、イスラム教のムスリム人)がせめぎ合い殺しあうボスニアの戦いは長引きました。内戦で最も傷ついたのはオシムの故郷サラエボ、ここでは1600人の子どもが亡くなりました。捜索すると死体が掘り返されます。人々の心には憎悪の記憶が焼きついています。

今回のボスニアチームの中心はムスリム人のエディン・ジェコ(マンチェスターシティのエース・ボスニアのダイヤモンド)、セルビア人のズビェズダン・ミシモビッチ(ドイツのトップクラブで活躍・代表の大黒柱)。ミシモビッチがゲームを組み立て、ジェコが決める。彼らはオシムが率いたユーゴ代表に憧れた子どもたちで、激しい内戦の中を生き抜きました。

1986年生まれのジェコ、「僕たちは民族や名前なんて関係ないとみんなに示した。民族を超えて一つになることが僕たちを成功に導くんだ」。ごく普通のサラリーマン家庭だったジェコ一家は今も砲弾の跡が残るアパートに身を寄せ、地下のシェルターで砲撃から身を守っていたと言います。子どもたちの楽しみは「絵・漫画」、シェルターに貼ってありました。そしてジェコは砲撃の合間を縫って命がけでサッカーの練習をしたのです。

ミュンヘンで生まれ育ったミシモビッチ、「ヨーロッパのチームでは様々な民族がいて、なんの問題もない」。彼の父は20代でミュンヘンに出稼ぎに行き、言葉のわからないまま苦労しました。息子がサッカーで成功することが支えとなりました。ミシモビッチの10歳年上の兄ビートはボスニアで兵士として内戦を戦いました。セルビア人の部隊にいたビートはムスリム人の武装勢力と戦い、戦闘で背中、胸、腹を負傷します。まだ銃弾が体の中に入っています。国内の少数派とならざるを得なかったセルビア人にはミシモビッチが代表の中に入ることを「裏切り」と感じる人も多いという現実があります。

7年前、ジェコとミシモビッチが顔を合わせた時、ボスニアのサッカー協会は三つの民族のせめぎ合いで混乱していました。2009年W杯予選、勝てば本大会出場となる最終戦をミシモビッチは二日前の負傷のため欠場し、チームは負けました。当時のクロアチア人の監督は「敗戦の原因はセルビア人の政治家の圧力を受け試合をサボったミシモビッチだ」と言いました。この中傷に怒ったミシモビッチは代表から去りました。

2014年6月15日アルゼンチン戦が始まりました。ボスニアチームは、試合早々不運な失点をしますが、アルゼンチンのエースメッシを抑え込み仕事をさせません。互角の闘いの中、前半が終了します。オシムは「ミシモビッチが頑張ればチームにもっとチャンスが生じる。彼の存在は世界にボスニアが多民族チームだと示すために必要だ」と語ります。クロアチア系のオシム、ムスリムの妻アシマ。彼は自分の民族を聞かれたら「サラエボっ子だ」と答えてきた、「私は人生で色々な人に出会ったが名前や民族のことを気にしたことはない。常に中立の立場を取ることが私にとって当たり前だ。政治的な目的にサッカーを利用したことはない。むしろサッカーは人を助ける手段だと思ってきた。」

2011年、3つの民族による混乱状態にあったボスニアサッカー協会をFIFA(国際サッカー連盟)このままでは国際試合への参加を認めない、と通告しました。この事態を一月半以内に解決するという難題に白羽の矢がオシムにたてられます。ボスニアではあらゆる団体が三つの民族に分かれていたのです。脳梗塞に倒れ、左半身に麻痺が残る69歳。不自由な体に鞭打ち、関係者の説得を行いました。最大の関門少数派のセルビア人指導者ミロラド・ドディックに直接会ったオシムは「うまい酒を飲みにきたんだ」などとジョークを交えながらドディックに「サッカーはボスニアの最も大切な宝物だ。それをあなたが潰してしまっていいのか」と語りかけ、サッカー協会をまとめる支持を得ました。そしてサッカー協会は一つにまとまりました。「サッカーは人と人を結びつけるものだ。代表チームは多民族で構成されており、協会も多民族だ。みんな共存を望んでいるのだ。」

オシムの力でW杯出場を勝ち得たチームは快進撃を続け、ブラジル大会出場をかけた最終戦で、代表に復帰していたミシモビッチが起点となり、ジェコに展開し、決勝ゴールが生まれました。人々は歓喜に沸き、オシムは涙を見せました。それはユーゴ代表を辞退した22年前以来の涙でした。ボスニアのシンボルフラワー百合の花の唄を歌う選手たち。「まだまだボスニアは一つにはなっていない。ボスニアが何かできることがあると自信を取り戻したに過ぎない。チームは人々の気持ちを動かした。生活や仕事に希望が戻り、国が再び歩み始めるのだ」(オシム)。

ブラジルへ向かうチームを見送るオシムは一人一人にエールを送り、選手は皆オシムに敬意を表します。キャプテンに向かっては「あんまり複雑なことをするなよ。ここに集まっている記者たちは必ずしも君たちを応援してくれないぞ。成功したら嫉妬して失敗したら批判の的になる。」とシビアな言葉をかけます。

2014年6月15日ボスニア対アルゼンチン。後半に入りメッシに一点を入れられ、もはやこれまでと皆が思った後半40分に歴史的なゴールが生まれました。オシムの目に涙。試合は1−2の敗戦でしたが、祖国の人々の声援は鳴り止まず、ミシモビッチは「この試合のおかげで強くなれたと思います」とインタビューに応じた。そしてサポーターたちはオシムを讃える唄を歌いはじめました。

「サッカーの力で民族の壁を超えて一つになる、その実現は遠いかもしれないが、共存が可能だと信じる人々が生まれている。」堤真一さんの語りが心に沁みる番組でした。

この番組を通して、「オシム 終わりなき闘い」の内容が、かなり理解できたと感じました。また、本を読んでいたことで、イビチャ・オシムという偉大な人物についてもっと知りたい、と強く感じます。

2023・2月 なかなかまとめることができなくて、3月になり、我が家のベランダの沈丁花が香りを漂わせ始めました。朝の梅も明るい空に向かって元気に咲いています。

追)2023年2月4日隆祥館書店において「サッカーから戦争と平和を知る」と題したトークイベントが行われました。木村元彦さんと藤原辰史さんの対談です。

https://atta2.weblogs.jp/ryushokan/2023/01/202324

対談に寄せた木村さんのコメントです。「1999年に起きたNATOのユーゴ空爆はその後、世界に何をもたらしたのか。アフガンやイラクの前に検証すべきものとしてこの23年、追い続けました。コソボとイスラム国、そしてウクライナの問題は連動して起きています。そしてユーゴから最後に独立したコソボのサッカーを追うことでオシムさんの追悼に変えようと考えました。」

私たちは今、ウクライナで行われている戦争について胸を痛めています。今日本で語られる物語は、悪役プーチンから大きな被害を受けるウクライナ、ウクライナを助けるNATOは正義、という筋立てです。しかしそんな簡単に語られる物語ではない、と木村さん。この木村さんと藤原さんの対談については別の稿でまとめたいと思います。