日本の古典文学の中でももっとも有名な作品の一つである「枕草子」、もっとも誤解されている作品だ、と土方さんは書き始めます。そしてこの本の中で「枕草子」の本当の姿を探っていき、これが折に触れて読み返すに足る魅力的な古典だと読者に賛同していただきたい、と。
枕草子は、清少納言という個人が書いたという以前に、「定子後宮における公的制作物」であり、清少納言の立場は「編纂の責任者」である、と土方さんは述べます。「類聚的章段」について、それは詠歌を念頭に置いて書かれたものであり、共通性のあるものを次々に列挙することで皆(宮廷社会で生活する女房たち)が、言語感覚や和歌の質をより洗練されたものにしていこうとする積極的な意図から発した言葉のやり取りを清少納言が掬い取った、との考察、なるほどです。
有名な「春はあけぼの(1段)」も次のように書かれたのでは、と土方さんは考えます。「春といわれたらなんと答える?」という設問への答えとして、それ以前の常識ではなかった(和歌の世界で「春のあけぼの」を詠んだ歌は『枕草子』以前の時代には存在しない)、「あけぼの」という答えを口にしただれかが(清少納言でもいい)、「やうやう白くなりゆく山ぎは〜」と情景描写を交えて説明すると確かにしみじみと心に沁みる感覚があり、それまでと違う斬新な感覚がある、それでその場の一同は感嘆し「よしそれでいきましょう」と意見が一致して選ばれた〜〜〜以下同様に「夏は夜」「秋は夕暮」「冬はつとめて」=定番化していた季節感にはない斬新な解答は、問いに対する最優秀賞だった。中宮定子の後宮の人々に共有されている先鋭で斬新な美意識を打ち出すコピーとして強い印象を与えるこの「春はあけぼの(1段)」は、大成功だった。・・・なるほど・・・。
やがて「類聚」という形式から離れてより自由なスタイルの叙述に拡大されていた結果、いわゆる「随想的形式の文章」が生まれてきた例として、「五月ばかりなどに、山里にありく(207段)」を土方さんはあげます。この美しい文章は、私たちが日常生活の中で間違いなく体験していることだけれど一瞬を切り取ってみせる和歌という形式によっては表現することの難しい感覚を、「をかし」を感じる、というメッセージに仕立て上げた。そこに随想的章段と呼ばれる文章の本質があり、清少納言は、そのような定子後宮からのメッセージ発信の中心にいた、コピーライターだったのだ、だから、個人の美意識や意見を表明したのではない、というのです。
枕草子の「日記的章段」は、定子後宮に起きた出来事の記録となっていますが、中関白家のマイナスのイメージにつながるようなことは書かないという方針に貫かれています。そんな「日記的章段」の出来事を年代順に辿ることで、土方さんは、清少納言の宮仕えを浮かび上がらせ、その奥底の清少納言の悲嘆、慟哭を滲み上がらせ、清少納言その人の素顔を浮かび上がらせます。
土方さんは、最後に次のような疑問を提示します。「『枕草子』という「作品」は、清少納言と呼ばれる人の手によってだいたいいまあるような形にまとめ上げられたものだと、これまで暗黙のうちに考えられてきた、〜〜本当にそう考えてよいのだろうか。」
そして、11世紀半ばごろに活躍した歌人藤原範永の家集にある、清少納言と藤原棟世との間に生まれた娘小馬の命婦(上東門院彰子に仕えていた)と範永との贈答歌から、現在の『枕草子』の原型は、中宮定子の急逝後執筆動機を失い放置されていたものを上東門院小馬命婦が整理編集したものだ、と想像します。
平安時代には多くの物語が流布していたことが記録からわかります。しかしその多くは失われてしまいました。「その中で、物語でない『枕草子』が失われず残ったのは、『枕草子』というテクストを成り立たせている〈ことば〉の強靭な力による」と述べて、この本は終わります(いやまだ続きはありますが・・・)。
清少納言、中宮定子、同僚の女房たち、一条天皇やその周りの男たち、中宮彰子、紫式部、赤染衛門、和泉式部、、、それぞれの顔が、この本を通して私の脳裏に浮かんできました。清少納言が40歳を過ぎて産んだと考えられる娘小馬の命婦が、母と同じキャリアウーマンとなって、「働く女性の仕事の記録」である『枕草子』を再編集した、としたら、そこには上東門院彰子の力が必ず及んでいただろう、と思いました。男たちの政争の駒でしかなかったように思われている女たちに、当たり前ですが、強い個性があり、駒で終わらない強い意思があったのだ、と、改めて感じました。
面白い読書でした。
2022・8 早くも8月が終わろうとしています。台風が近づいています。枕草子には「風は暴風( あらし)と呼びたいほど強く吹き荒れるのがいい」とありますが・・・被害が少ないことを祈ります。
追記 9月3日(土)朝日新聞 やくみつるさん「真暗草子」キレていますね