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本 枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い

先ほどご紹介した本。

紫式部日記〜島内景二(「枕草子のたくらみ」とあわせて)島内啓二さんの「古典購読」快調です。特に2月18日放送の「紫式部日記 和泉式部や清少納言への批判」とても面白かったです。山本淳子さんの「枕草子のたくらみ」をちょうど読んでいたのであわせて面白さが倍増しました。...

これは古典、特に王朝文学ファン必読の書です。「枕草子」に対する見方がぐるりと変わり、思い浮かぶ清少納言像も大きく変わります。

この本の筆者山本淳子さんは紫式部の清少納言批判の「現実を無視してことさら風流ばかりを拾い集めた作品であり、風流を気取り切った人はぞっとするようなひどい折にも『ああ』と感動し『素敵』とときめくことを見逃しません」と書いているところに注目します。「『枕草子』の文面には記されない、過酷な事情を、同じ時代を生きた紫式部は知っていた、そして彼女の常識で判断する限り、その過酷さは、風流だの趣だのの入り込む隙のない絶望的なものであった。」それなのに清少納言は美や光や笑い、感動、ときめきばかりを書いた。それは彼女の企て、紫式部の側からすれば企みだった。だから清少納言は紫式部から酷評された〜いや紫式部に酷評「させたのである。」という文章から始まる序章で、山本さんは定子をめぐる厳しい運命を描きます。

枕草子は、定子が長徳の政変によって出家した後の長徳2(996)年ごろ、定子の元を離れ自宅に引きこもった時に執筆を開始されたと考えられます。そして定子逝去の長保2(1000)年の9年後の寛弘6(1009)年までは書き続けられていたようです。紫式部日記で清少納言批判が記されたのは翌年1010年のことでした。山本さんは「紫式部の清少納言批判を目にしたとしても、いい得ていると、きっと笑ったに違いない。闇の中にあって闇を書いていないのは、清少納言自身がそう意図したからだ。」といいます。

「どうか定子になった思いで、『枕草子』に触れていただきたい」と山本さんは書きます。そして、その後繰り広げられる二十章の文章の中に、定子の素顔、清少納言の素顔、を表出させていきます。

定子という人は「型破り」な人だったようです。御簾のすぐ近くの端近(室内の外に近い位置)と呼ばれる場所に座ったり、手紙を投げて渡したり。そういう「男前」な性質は定子の母の高階貴子(たかしなのきし)から受け継がれたようです。貴子はその父成忠から「結婚(男心)など信頼できぬ」と宮仕えを勧められますが 〈成忠さん凄い現実主義!〉、彼女の漢学の才能が認められ、藤原氏九条流の御曹司の心を射止めたのです。貴子は「引っ込んでいるのではなく前に出て」「親しみやすく。知性と教養は常に忘れてはいけない。」と子どもたちに伝えます。そうして、「積極性、自己主張、優雅な機知、庶民性、を特徴とした」後宮文化が花開き、人々の心を魅了したのです。

清少納言は966年頃誕生、父はその9年後待ち望んだ国守の地位を得、彼女は父について四国に赴きます。貴族になれるかなれないかぎりぎりの線から一つでも上を目指し生きていく、という感覚を、彼女は、父祖から受け継いだろう、と山本さん。彼女は橘則光と結婚し、則長を産みます。則光と別れた後、宮仕えに出て元夫と再会し「妹兄」と通称されたとあります。清少納言が憧れるのは結婚しても宮仕え経験を生かし続ける女でした。

長徳元(995)年、中関白家の長である藤原道隆死去。その頃、疫病により公卿たちが次々と倒れ亡くなります。そんな中、道隆の弟の道長が権力を握り、翌長徳2(996)年、長徳の政変における藤原伊周、隆家、定子たちのとった行動はなんとも軽率であり、その凋落ぶりは目を覆わんばかりです。このとき中関白家が見舞われた、緊張と抵抗、失意と絶望の一部始終を、清少納言は定子の傍にいて見ていたはずですが、『枕草子』には書きません。

わずかに137段「殿などのおわしまさで後」に「世の中で事件が起こり騒動となって、宮様も帝に御目もじなさらず、小二条殿というところにいらっしゃった時、なんとなく嫌なことがあって私は長く自宅に引きこもっていた。」「清少納言は道長様方と通じた筋の人なのよ、と言われてのけものにされた。」と書いています。彼女はこの引きこもりの期間に、「早く出て来なさいね」という手紙とともに定子から紙を送られ、そして、原『枕草子』を執筆し定子に届けたと考えられるそうです。この時に彼女と定子との間をやりとりしたのは『源氏物語』光源氏のモデルと称される源高明の子、経房でした。「零落した家」の者としての経房の思いが定子への気遣いに現れているのではないか、と山本さんは記します。

定子は長徳3(997)年一条天皇によって中宮職の庁舎に移されますが、中宮としての適格性を欠く(出家の身)と貴族たちから反発されます。「実は中宮様は出家などなさっていない、と言っているとか。実にあり得ないことよ。」と『小右記(藤原実資)』にも記されています。『枕草子』にはもちろん定子の出家のことには一言も触れず、この中宮職の庁舎に住んでいる時のこととして、「築地塀の外を公卿や殿上人が通るたびに女房たちが大騒ぎしたり、中宮職への彼らの来訪が途切れることがないのはそういう女房たちが目当てなのだ。」と、記します。定子サロンは文化の最前線で風流を極めていたのです。

それから10年以上後、紫式部日記(寛弘7(1010)年)に『殿上人の方々は「朝晩出入りして見飽きた宮中にはちょっとした会話を小耳に挟んで気の利いた反応をするとか、風流な言葉をかけられて面目ある返答をできる後宮女房はなあ、実に少なくなったものよ」と言っているようでございます。私にはみる事のできない昔のことですから、そんなこと本当かどうか存じませんけれどね。』という悔しそうな部分があります。殿上人たちは紛れもなく定子付き女房たちのことを懐かしんでおり、苦境の定子を支えながら頑張った彼女たちは長く忘れられない風流の手本となったのだった、と山本さんは指摘します。

そんな彼女たちの中でも、とりわけからりと明るく見える清少納言だが、その中には、いつ零落するかわからないゆえに下衆を必死に否定する彼女、また歌詠みの家の出である面目から萎縮し歌を詠ませないでと懇願する彼女、がいた。しかし、そんな彼女清少納言は、定子の前では輝くことができたのだ、と山本さんはいいます。

長保2(1000)年2月20日、彰子に中宮の称号が授けられた日のこととして、『枕草子』は228段「一条の院をは今内裏とぞ言ふ」で笛を吹く帝を囲む幸せな様子を描き「不遇など感じなかった。」と言い切っています。帝の笛を聞いている時には悲しみが忘れられた、枕草子には幸福だった定子後宮をこそ記し留めて起きたかった、少しでも恨みがましいことを書けば政権に楯突く作品と指弾される恐れがあった、この三つの理由を山本さんはあげておられます。

紫式部と清少納言との関係について、山本さんの新しい視点が魅力的です。源氏物語と枕草子の執筆時期が重なるところに注目、「『枕草子』を受けて『源氏物語』が書かれただけでなく、『源氏物語』の言葉に触発されて『枕草子』が応えたという可能性も否定できない」という視点。また『枕草子』に個性的に描かれている紫式部の夫藤原宣孝(のぶたか)について、紫式部自身も『紫式部集』でその明るく面白おかしいところを書きとどめていて、「愛すべき夫」として捉えているという視点。

『枕草子』に描かれた定子の最後の姿は、長保2(1000)年、清少納言の大好きな五月の節句を舞台とする223段「三条宮におはしますころ」です。この段で到達したのは「一条朝の最先端を疾走した皇后定子の文化とその人生そのものを『枕草子』に永久保存し」「その理想性をこそ世に伝える」こと。それこそが『枕草子』の意味であり戦略なのだと山本さんは捉えます。

この年の末、出産に耐えられないことを自覚した定子は周囲の人々に辞世を遺し、16日早朝難産の末女の子を出産後崩御。「知る人もなき別れ路に今はとて心細くも急ぎたつかな(この世と別れ、知る人もいない死の世界へ。心細いけれど急いでもう旅立たなくてはなりません。)」〜この歌に心動かされたのが紫式部であり、彼女は『源氏物語』冒頭、桐壺更衣の辞世の句に取り込んでいます。「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり(もうおしまい。お別れして行かなければなりません。でもその死出の道の悲しいこと。行きたいのは生きたいのはこんな道ではありません。私は命を生きたいのに。)」

定子の死を聞いた藤原道長は怨霊に襲われて疲れ果てていて一条天皇の呼び出しに応じることができませんでした。また藤原行成は、この日までの批判的な態度から同情的な態度へと変わり、第一皇子敦康親王の母として定子を「国母」と呼んでいます。また若い世代の公達の中には出家するものも現れました。こんなにも不条理に揺れ動く世でうかうかと生きていてなんになろうという厭世観を定子の死は与えたというのす。

誰よりも定子の死を悲しんだ一条天皇。定子の妹の御匣(みくしげ)殿を見初めますが、それは定子の身代わりだということは誰の目にも明らかでした。道長は二人の仲を割くべく敦康親王を彰子の元に引き取りました。御匣(みくしげ)殿は長保4(1002)年懐妊し6月3日自宅で急死します。

その時に一条天皇が連絡を取ったのが、夫藤原棟世の赴任地摂津にいた清少納言でした。この頃、原『枕草子』(定子の心を慰めるために書いたもの)は一部に流出していたと考えられるそうです。夫の任期満了と主に都に戻った清少納言は、再び筆を取り悲劇の皇后定子の記憶を世が内心で欲しているように理想の皇后へと塗り替えるというたくらみのもと、筆をとった、と山本さんは推量します。「定子は不幸などではなく、もちろん誰からも迫害されておらず、いつも雅びを忘れず幸福に笑っていた、と。」それが「定子への鎮魂」であり、「世の人々自身への救い」となり、世の人々はこの作品を受け入れ、癒されたに違いない、と山本さん。「ただ、この書は真実ではない、この虚像には騙されない、そう呟く紫式部を別にして。『清少納言こそしたり顔にいみじう侍りける人(清少納言こそは得意顔でとんでもなかったとかいう人)』」で、この本は「了」となっています。

・・・うまくまとめることができませんでしたが、多くの人々の研究の成果の上に山本さんの一条朝社会全体とその中で一人一人の人間が抱いた思いを見つめ続けた視点が加わって書かれた、「枕草子のたくらみ」。中身のいっぱい詰まった名著です。是非ご一読ください。

紫式部は清少納言を嫌っていたかもしれませんが、清少納言から大きな影響を受け、あるいはお互いに影響しあっって、その文学観を醸成したことは確かだと感じました。

2022年2月23日 二十余年前、高校の教員から大学院生へと転じ研究に打ち込んだという山本さんの本気に脱帽拍手。

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たつこ
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今でも手元にある「長くつ下のピッピ」「やかまし村のこどもたち」が読書体験の原点。「ギャ〜!」と叫ぶほかない失敗をたび重ねていまに至ります。

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