大伴宿禰家持の雪の梅の歌一首
今日降りし 雪に競(きほ)ひて わが屋前(やど)の 冬木の梅は 花咲きにけり 万葉集巻八 1649
今日降った雪と競って、我が家の枯れ木だった冬木の梅は、春の花を咲かせ春の木となったことだ。
「冬の雑歌」の一首。紀女郎(きのいらつめ)の歌(1648)と並んでいるので天平11(739)年の冬だろう、と、中西進さんは書いておられます。家持は22歳。(「大伴家持 万葉歌人の歌と生涯 1〜6巻」を昨年購入し読んでいます。これまでこのブログで好き勝手書いていたことを恥じ入りながら・・・。それでこのところブログにはあまり家持のことを書いていないのですが、私の中では相変わらず家持三昧であります。)
万葉集の中では家持の父旅人の「沫雪(あわゆき)の ほどろほどろに 振り敷けば 平城(なら)の京(みやこ)し 思ほゆるかな(1639) 沫雪がまだらに降り続くと平城の京が思われることよ」「わが丘に 盛りに咲ける 梅の花 残れる雪を まがへつるかも(1640) わが家のある丘に咲いた梅の花よ。残雪をそれと見間違えたことよ」に続いて梅と雪を取り合わせた歌が続き、家持のこの歌となります。旅人の望郷の思いはとても強いものがあったでしょう、少年家持は九州に一緒に行ったと考えられています。
家持の父旅人は、天平2(730)年九州の太宰府で梅花の宴を開きました。辺境の地に64歳という年齢で派遣された(遠ざけられた)憂さを、旅人は大陸からの新しい文化の象徴として梅を植え、宴を開き、新しい趣向の歌を交わしました。
その時に旅人が歌った「わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも 万葉集巻5 822 」
をはじめとして、この時多くの雪と梅の歌が詠まれました。家持もこの宴で歌われた雪と梅のことは当然知っており、そして、家持らしい新しい視点をこの歌に織り込んだ、と中西さんは書いておられます。
家持は、「今日雪が降った、その雪と競合して梅が花を開いた」、つまり「雪と梅との、白の美の争い」、擬人化でいえば雪を花と見立てて「雪という花が咲いた、梅も負けていられないと咲いた」という斬新な発想を持ち、そして「冬の木であった梅に花が咲いて、春の木になった」、冬木という大胆な造語を使った着眼を持って、それでもすらりと流れるような調べを歌にのせました。
今シーズンは、雪の多い年です。先日は関東一円で大雪との報道一色になりましたね。しかし私の住む辺りでは雪が積もることはありませんでした。立春も過ぎ、陽の光は日一日と明るくなっていきます。光の春の候、我が家の近くの梅も花をつけて春の木となりました。
千里南公園では連休中多くの人が梅を楽しんでいました。
望遠カメラを持った人々がずらりと並んで撮影会。その横のまだ蕾の梅の木にジョウビタキがとまっていました。スマホでパチリ。
1月中山寺に参った時に駅近くの花屋さんで紅白の梅の木を購入しました。その紅梅が今ベランダで満開です。白梅も綺麗な花をつけ始めています。
今日は万博公園の梅林に行きました。
紀女郎の歌
十二月(しわす)には 沫雪(あわゆき)降ると 知らねかも 梅の花咲く 含(ふふ)めらずして 万葉集巻八 1647
冬十二月にはまだ沫雪が降るとは知らないからか、早々と梅の花が咲くことよ。つぼんでいないで。
旧暦では今年の2月1日がお正月でした。雪と競って降るのではない、梅は雪とは違う花として自分を主張しているようです。紀女郎という人の個性が感じられます。
ひさかたの 月夜を清み 梅の花 心開けて わが思える君 1661
月夜が清らかなので梅の花が花開く、そのように心を開いて、私がお慕いするあなたよ。
たまたま月や清らかだから梅の花が開いたのではなく、月が清らかだからそれを理由として梅が咲いたのだという歌。視点が素晴らしいと中西進さんは絶賛しておられます。
「〜から」という理由を求める二首を詠むとやはり紀女郎という人のちょっと理屈っぽい一面が垣間見られるように思います。家持とのやりとりは恋愛というよりは、年上の女としての戯れっぽいと考えられていますが、上記の1661の歌の「わが思える君」は誰でしょう?家持なのではないのでしょうか。
今日2月15日は旧暦では1月15日。明後日が満月です。美しい月と梅の取り合わせも楽しみたいです。
まだまだ寒い日が続きますが梅の花が春を告げてくれています。
2022・2・15
追記
2月16日 空は晴れて、夜空に月も星も美しく浮かび上がっていました。2月17日 西日本にも大雪が降りました。職場のテラスのハナウメも綻び始めました。テラスには、様々な鳥たちが訪れます。帰り道、空は曇っており満月は見えませんでした。