図書館で本を予約していると、話題になった本は長く待たされ、また、一気に何冊も同時に借りるハメに陥ります。とはいえ、家の中のものは減らしていかないといけないお年頃の私は、できるだけ図書館で本を借りることにしています。このところ、次々と図書館から案内が入り、次々と借り、残念ながら読まないまま返却した本もありました。そんな理由で何冊も並行して本を読むハメに陥っています。
その中から一冊。
ヤン・ヨンヒさんの「兄 かぞくのくに」です。https://www.shogakukan.co.jp/books/09408833
この1月彼女の映画「スープとイデオロギー」と、彼女を取り上げたTV番組「オモニの島 私の故郷〜映画監督ヤン・ヨンヒ」をみて、遅まきながらこの本を知り、図書館に予約していたものです。
総連幹部の娘として生まれたヤン・ヨンヒの家族の物語。
強烈な父権を発揮するアボジ、そのアボジや家族を圧倒的な現実的な行動力でしっかりと支えるオモニ、の元に生まれた三人の男の子たちは、「帰国事業」(1959年〜1984年)によって北朝鮮に渡る運命を避けることはできませんでした。
下の兄からも8歳離れて生まれた末っ子のヨンヒは皆から可愛がられて育ちます。兄たちには厳しいアボジもヨンヒにはベタベタで甘い父でした。兄たちは「人権問題や」と笑いながらいいます。
1971年秋、在日を差別する日本では将来の展望が開けないと感じていた高校1年の次兄コナと中学三年のケンちゃん兄が新潟から北朝鮮に向かいます。二人とも直前になって「やめたい」と言い出したけれどもすでに後戻りできなくなっていたのです。そして年明け朝鮮大学校1年の長兄コノ兄が北への帰国団に指名されました。金日成の還暦祝いの「人間プレゼント」二百人の一人に選ばれたのです。父母は秘密裏に取りやめてもらうように動いたけれど、結局断るという選択肢はありませんでした。
11年後、ヨンヒは朝鮮学校の2年生、「学生代表団」に選ばれて北朝鮮を訪問し、思いもよらなかったケンちゃんの結婚式に出席。二週間、我慢強く会える時を待っていてくれた兄たちとできるだけ会ったヨンヒでしたが、様々な思いの中モヤモヤと欲求不満を抱えて帰国しました。
1984年、朝鮮大学校の学生になったヨンヒは二度目の訪朝をします。恋人を巡ってアボジと対立した話をすると、皆ヨンヒに大賛成、アボジに反論する彼女に拍手喝采、持参した兄たちへの生活費(母からの)を、逆に「婚前旅行に行ってこい!」と渡すのでした。
その後朝鮮学校の教師となり、同僚との結婚(父の望み)、離婚を経て、鶴橋の実家に戻った彼女は日本と北朝鮮の合作映画に出演するために三度目の訪朝をします。撮影の日々の中で、彼女は又しても北朝鮮の矛盾に直面します。
そしてこの時、長兄のコノは精神を病んでいました。クラシック音楽をこよなく愛するコノは、違法なもの(レコードなど)を持参していたという理由で「自己批判」を強いられ、自分を蔑みながら革命への忠誠を誓わされ、歪んだ環境の中、深く傷つき病んだのです。
兄たちと会食したレストランでコノ兄が壊れて叫んだ日の夜、ヨンヒは生まれ変わりました。「私は私として生きる。もう我慢はしない」。彼女はその後ニューヨークに留学し大きな変化を遂げるのです。
建築家になりたいと言って北朝鮮に渡った次兄コナは27歳で結婚し二人の子に恵まれますが、二人目がまだ乳飲み子の時に妻は家を出て行きました。再婚相手のジョンスンがとても良い女性で、二人の子どもたちも、ジョンスンの生んだソナも、あたたかい家庭の中ですくすくと育っていました。ところがジョンスンさんが誤診のために逝去、紆余曲折ののち、素敵な女性ヘギョンさんがコノ兄の妻となり、子どもたちを優しくも厳しく育て、様々問題にも立ち向かいます。
日本からの仕送りのあるヤン家の兄弟たちは北朝鮮の人々からは複雑な目で見られています。そんな中で子どもたちへの嫌がらせもあります。また、北朝鮮にいる兄たちの面倒をいずれ自分が見なければいけない、と、ヨンヒは思い、その思いを兄たちも理解しています。コノ兄は「好きにやればええんやで。人生は一回きりやからな。やりたいようにやったらええ!」と言うのでした。
1999年三兄のケンちゃんが頬にできた腫瘍の治療のために日本に帰ってきます。アボジとオモニの懸命の人力の結果でした。しかしケンちゃんは治療できないまま、帰朝を余儀無くされます。トップの命令に従う思考停止以外に生きる道のないケンちゃん。この時の出来事が映画『かぞくのくに』に描かれました。
2001年4年遅れのアボジの70歳のお祝いを兄たちが企画し、平壌で親戚が一堂に会しました。それはアボジのためというよりは北朝鮮の親族たちのためだったのです。総連幹部のパーティに招かれるということが彼らに箔をつけるのです。パーティの最中オフィシャルな市民を演じている彼らは、時々臨機応変に「ヨンヒ、ちゃんと日本に帰れよ。俺らみたいに血迷ったらあかんで」や「アンタはいいわね、帰れるから」という言葉をヨンヒにかけるのでした。帰朝者の本音が垣間見られます。
2004年アボジは「(三人の兄を)行かさんでも・・・よかったかな」という言葉をポツリと漏らした後、脳梗塞で倒れました。ヤン・ヨンヒ初監督映画『ディア・ピョンヤン』の編集の真っ只中でした。
2009年7月『ディア・ピョンヤン』発表、ベルリン国際映画祭などで受賞します。そレから、彼女は朝鮮総連から北朝鮮への入国禁止処分を受けました。作品に対する「謝罪文」を求められた彼女は、〝家族の話をやめません〟と宣言する=次兄コナの末っ子ソナの成長を描く作品を制作するという決心を固めていました。そんな折長兄コノの死が伝えられます。墓を建てるためにピョンヤンに帰るオモニでしたがヨンヒは訪朝を許されませんでした。
11月長兄コノの死を知らないままアボジは亡くなります。82歳でした。生まれ故郷の済州島ではなく、息子や孫たちのいるピョンヤンに墓を作りました。それが遺された家族にとってのステータスになるそうです。
ヨンヒ監督は2011年に『愛しきソナ』、2012年には初めての劇映画『かぞくのくに』を発表、2月にベルリン国際映画祭で温かい拍手で迎えられました。同じように分裂の歴史を持ち、国、家族、友人が引き裂かれるとはどういうことかことか身を以て知っているせいか、観客たちは自身の家族の歴史をヨンヒに話してくれました。その後、約20の国の映画祭に招待され、多くの賞を受賞し、多くの街に多くの友人ができました。
大阪初公開日に作品を見たオモニは、「これからも映画つくるんやろ、もうオモニは何も言えへん。とにかく、体だけ気をつけなさい」と言いました。そして自身の来し方を語り始めました。2013年刊の文庫本のあと書き〜「次の作品に向かって頭の中はグルグル妄想中。足がすくむほど怖い、でもだからこそ挑戦し続けたい」にあるように、彼女は2022年『スープとイデオロギー』を発表するのです。
ヤン・ヨンヒさんと家族の心の軌跡を丁寧に辿った涙なしには読めない一冊でした。独裁国家の恐ろしさを強く感じました。人々は沈黙の中それでもしたたかに生きている・・・。一方で、日本という国の持つ閉鎖性を改めて感じ、またこの国で沈黙せざるを得ない人々の存在(ひとごととしてではなく)を改めて考えた一冊でもあります。是非ご一読を!
私は機会を見つけて必ず、彼女の作品をみようと思います。
2023年3月21日(火)お彼岸です。一昨日朝6時半また雁たちが飛び去るのに出会い(写真が撮れました)ました。昨日は、お墓詣りに行き、今年初めてのツバメに出会いました。
大阪の桜開花宣言もあり、春が一気にやってきました。どの花も美しく、それぞれの歴史を持っています。どの花もあっという間に儚く散り、また別の花が次々と咲きます。