「ネガティブケイパビリティ 」「オープンダイアローグ」という考え方について、このブログで紹介してきました。これらの考え方は「あいまいさを引き受けて」ということばと繋がるなあと思い、清水眞砂子さんの「あいまいさを引き受けて」を読みました。
のっけから素晴らしい。「働きかけないという豊かさも」という題。「私はゆっくりとした重い牛を思わせる学生が実習先で、ある日子どもを抱き、黙ってその子の視線を追っていたのを知っています。その先にはちらちらと光る木の葉がありました。彼女は子どもと一緒に黙ってゆらぐ木の葉を見続けます。と、やがて子どもに奇跡ともいうべきことが起こり・・・」何が起きたかは清水さんは書いてくれていません。・・・「なんでもスピードが早くなって」「呼吸が浅くなって」「物事が受け止めることでできなく」なっている中で、ゆっくりと深く呼吸することができる人である、ということは素晴らしいこと、それは「働きかけない豊かさ」だ、との言葉に深くうなづきます。自分自身、仕事の中で「働きかけない」ことの難しさを痛感する毎日です。
鶴見俊輔さんの「もうろく帖・後編」(編集グループ SURE)https://www.groupsure.net/post_item.php?type=books&p=1&o=&y=&page=tsurumi_mourokuchou
を読みながら付箋だらけになった、というエピソードが続いて出てきますが、私自身はこの「あいまいさを引き受けて」を読みながら大量の付箋を使ってしまいました。鶴見俊輔さんの偉大さも改めてこの本によって感じ入りました。
小学校の教員が最も多かったナチス党員のこと知るは悲しき(梅田悦子・近藤茂美選・朝日新聞) 2004年2月16日、鶴見さんが1行だけ記しておられるのを読んだ清水さんは「批判なき真面目さは悪をなす」という言葉を思い出したそうです。
鶴見さんはその後に「学校は断罪の枠のみすりこむ。百点(教師の頭の中の)のみ与える。百点からの逸脱の可能性を与えることが教育であるのに・・・」という内容を記されています。清水さん自身はこの「百点からの逸脱の可能性」を「本(文学)がささやいてくれる」、と考えているとおっしゃっています。しかし「本を読むと心が豊かになる」というスローガンのような薄っぺらい読書ではなくて、自身の中の魑魅魍魎に出会うような読書体験にこそ文学の意味があるというのです。無意識の闇が暴かれてこその読書なのだと。
「教室はわからなくてはいけないところ?」というエッセイを清水さんは書きました。教室は生徒たちが自分を肯定できるようにするところであるはずなのに、「わからなくてはいけない」という呪縛の中、生徒たちは自分を肯定できなくなってしまう・・・(というこのエッセイが時々入試問題に使われるというブラックユーモア的なことが起きている、というおまけ付きですが)清水さんは、「文学はわからなくていい」と断言します。20年30年後に「ああそうか」と思う余地を残す教室・読書であってほしい、と。
読み進めていくと、鶴見さんの他にも、沢山の先人たちの言葉や作品が次々と登場し、目がくるくる回るような気持ちになります。あれも読まなきゃ、これも読まなきゃ、と。しかしそういう気持ちを抑えて、清水さん自身がここで何を言いたいのかに耳をすませることが、この本を読む意義なんだと自分に言い聞かせ、途中から付箋を貼るのをやめました。
子どもも大人も、いつも明るく元気で活発でいることをよしとされ、強いられている現在、「昼休みにひとりで図書館に向かう子は要注意」とか「ひとりでいる子に声をかける」ことが常識になっている現場に対し、清水さんは物言います。「ひとり居のひととき、その子供がどんな深い世界に生きているか、どんなに遥かな世界に思いを馳せているかを忘れて、ずかずかと子どもの内面に踏み込むことを私たち大人はしばしばやってしまいます。」
その通りだと思います。一人でいることをよしとする文化を私たちは取り戻す必要があります。私自身中学時代に図書館に日参していたら「何か悩みがあるの?」と先生から聞かれた経験があります。同様に図書館に日参していた友人も同様の質問をされたそうです。その方は良い先生でした。しかし、何年かののち、私たちが二人してその言葉をかけられたことをお互いに知った時、共通の感想は「ほっといて」でした。
「ひとり居はそんなにさびしく、わからないことがわからないままに置かれるのは、そんなに耐えがたいことでしょうか。私は今、人々が避けて通ろうとする退屈もまた、ヒトが人になるためには不可欠な体験ではないかと考えています。」
この本の終わりは鶴見俊輔さんとの対談「問いを受けついで」です。「ゲド戦記」のル・グウィンと「ぴいちゃあしん」の乙骨淑子さんを柱にしたこの対談の読み応えは半端ないもので、それぞれの歴史的背景を呈示しながら二人の立つ位置の確かさが明らかになって行きます。そして会場からの質問にそれぞれ答えていきます。一つ一つの言葉は重厚で簡単に咀嚼できるものではありませんが、示唆に富んでいます。その中から鶴見さんの言葉をここにあげさせていただきます。
人生で3回のうつ病の発作を経験している鶴見さんは、観念を完全に攪拌され、恩恵を受けた、とおっしゃいます。(迷惑を受けている人は沢山いますが(笑)とも。)「そういう観点から精神病を見て、それをどういう風に表現できるかというのは、平ったい学術語では表現するのは難しいですよ。だが、生きている人でいえばそれぞれ表現の道を見つけている。」「精神病の中から出てくる観念は陰のある観念にならざるを得ません。その意味では1905年からほとんど百年にわたる、日本のインテリの不毛な歴史、これが真っ暗だということがわかっていないんだ。精神病はそれから自分を解き放つきっかけにはなると思います。」「陰のない観念、これが1905年以来百年の日本の問題です。乙骨さんは、玉砂利に座ってから、その問題に気がついていた人の一人です。だから、乙骨さんの文学は偉大だったのです。」
乙骨淑子さんの本をこれからゆっくりと読んで行こうと思っています。
そしてこの本でも、再確認した「明解な答えを性急に求めないことの大切さ」を肝に命じていきたいと思います。その時代にいたらナチ党員になっている素質を自分が十分に持っていることも肝に命じて。
追記)1984年に発行された、清水眞砂子さんの「子どもの本の現在」https://www.iwanami.co.jp/book/b270269.html
には「あいまいさを引き受けて」と題された乙骨淑子論が載せられています。このブログでも紹介しましたが、この本も読み応えの半端ないよい本です。
また「ネガティブケイパビリティ 」「オープンダイアローグ」についてはこちらそお読みください。