撫子(なでしこ)の花、今とても美しく咲いています。
このなでしこを愛し多く歌に詠んだのが万葉集を編纂した大伴家持です。
家持の時代のなでしこはカワラナデシコといい繊細な美しいピンク色のものです。
なでしこが 花見るごとに 少女(をとめ)らが 笑(ゑ)まひのにほひ 思ほゆるかも
大伴家持 万葉集 巻十八 4114
(なでしこが はなみるごとに おとめらが えまいのにおい おもおゆるかも)
なでしこの花を見るたびにあの愛おしい乙女の美しく艶やかな微笑みが思い出されてならない。
749年(天平感宝元年)5月26日庭に咲くなでしこの花をみて詠ったものです。32歳の家持は、越中国の国司として赴任して3年目のことでした。国司の任期は5年。都から離れた雪深い北国での生活の中、彼は妻を思ってこのうたを詠いました。妻の柔らかな手枕で寝ることもできない独り暮らしの中、彼は、庭になでしこの花を植えて、また夏の野原に咲いていた百合の花も植え、花を愛でては、「美しいなでしこのような妻に後には会える」と呟くことを慰めにしていたそうです。〜そうしなければ一日だってこのような都から遠く離れた土地にいきていくことは出来ない〜
家持が懐かしく思い出している妻は坂上大嬢。幼馴染で結婚して10年の月日が経っても家持は妻を、可憐ななでしこの花に例え、讃えます。素敵な夫婦ですね。
家持は15歳で11歳の坂上大嬢と婚約をしています。
我がやどに 蒔きしなでしこ いつしかも 花に咲きなむ 比へつつ見む
大伴家持 万葉集 巻八 1448
(わがやどに まきしなでしこ いつしかも はなにさきなむ なそへつつみむ)
「私の家の庭に蒔いた撫子はいつになったら咲くだろう。咲いたらそれを愛しいあなたと思って眺めよう」
婚約者である坂上大嬢に贈った歌。
なでしこが その花にもが 朝な朝な 手に取り持ち手て 恋ひぬ日なけむ
大伴家持 巻三 408
(なでしこが そのはなにもが あさなあさな てにとりもちて こいぬひなけむ)
「あなたがなでしこの花であったらいいのになあ。そうであったなら毎朝毎朝大切に取り持って愛でて慈しみましょうに」
とはいえ、家持は彼女一筋!というわけではないのです。16歳の時に「妾(おみなめ)」と呼ばれる女性のもとへ通うようになります。しかし彼女は、家持との間に女の赤ちゃんを遺して亡くなります。家持22歳の出来事でした。
739(天平11)年6月、軒下の雨おち石の傍のなでしこの花をみて作った一首。
秋さらば みつつ偲(しの)へと 妹(いも)が植ゑし やどのなでしこ 咲きにけるかも
大伴家持 万葉集 巻三 464
(あきさらば みつつしのべと いもがうえし やどのなでしこ さきにけるかも)
「秋になったらこの花が咲くからそれをみて私を偲んでください」と妻が植えた庭のなでしこが(秋が来る前に)家の敷石の傍に咲いたよ。」
妾(おみなえ)を亡くした悲しみが、美しいなでしこの花を見るとさらに募る〜家持の悲しみが直に伝わる歌だと思います。妻である坂上大嬢の母坂上郎女への遠慮もあって「妾」とこの女性を呼んだ、と水原紫苑さんは言っておられます。(奈良学ナイトレッスン)https://nara.jr-central.co.jp/event/mini/_pdf/131218.pdf
その後、家持は一旦は別れていた坂上大嬢と夫婦となります。
そして、十年の後、家持は都から遠く離れた土地で妻坂上大嬢のことを思うのです。
さ百合花 ゆりも逢はむと 下延ふる 心しなくは 今日も経めやも
大伴家持 万葉集 巻十八 4115
(さゆりばな ゆりもあわむと したはうる こころしなくは きょうもへめやも)
「百合の花の後には逢えようと期待することでもなければ今日一日だって過ごせはしない」
家持は絶大な自信を持って、坂上大嬢も自分のことを遠い都で強く思っている、と信じています。早くホトトギスがきて鳴く4月にならないか、ウツギの咲き匂う道を奈良の私の家で妻はため息をついて私にいつ逢えるだろうかと占っている、そんな妻に早く逢いたい、抱きしめたい、と思うのです。美しい百合の花は後にあうという意味を持つ花だそうです。
なでしこは、万葉の時代には歌に詠まれますが、その後平安時代になるとだんだんと詠まれなくなっていきます。あまりに素朴な花だからでしょうか。
2020水無月14日