6月21日の新月から二日目の昨夜、細い細い眉のような月が美しく見えました。今日は三日目の三日月・・・なのですが残念ながら今の所見ることができていません。
振仰けて 若月みれば 一目見し 人の眉引 思ほゆるかも
(ふりさけて わかづきみれば ひとめみし ひとのまゆひき おもおゆるかも)
大伴家持 万葉集 巻六 994
空遠く振り仰いで三日月(初月)を見ると一目だけ見た人の引眉が思われることよ
733年、16歳の家持の歌。当時女性は「眉引」といって実際の眉を剃り落として細い眉を描いていたそうです。叔母である大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)から歌の手ほどきを受けていた家持、この歌の相手はのちの妻大嬢を思ってのことと考えられます。
前回の百合〜家持と防人〜万葉の花②で家持は女性にモテており、万葉集には家持に送られた女性からの歌がたくさん採用されている、と書きました。それらの歌には本当の恋の情熱を歌ったものもあれば、宴会での戯れ歌もあれば、また、親愛の情を込めてユーモラスに歌ったものもあります。家持の育った大伴家は父の大伴旅人(たびと)や叔母の坂上郎女を中心として佐保歌壇と呼ばれる和歌を愛好する人々の集まりがあり、家持はその後継者でした。そんな家持に多くの女性が歌を贈ったのは、そういう彼の立場もあったと私には感じられます。もちろん家持に魅力がなければ歌を贈ることもなかったでしょう。
また、男性からモテたということも書きました。この後に書いた内容について訂正があります。
家持の召使金明軍が長年家持を慕い続けた、と書きましたが、金明軍は家持の父大伴旅人の召使(資人)で熱烈な愛の歌を捧げたのも旅人に対してでした。「森の世界翁〜樹へのまなざし(人文書院)」という素敵な本があるのですが、その中で著者の多田智満子さんが、ちょっと勘違いをなさっていたようです。
しかし、実際に家持は宴の中で多くの盟友達と歌のやり取りを行なっています。その歌の中に女性への相聞歌のごとく切実な思いが歌われているものもあります。
大伴家持、交遊と別るる歌三首 (仲のよかった友人と久しく会わなかった時の歌三首)
万葉集 巻四 680.681.682
けだしくも 人の中言 聞かせかも ここだく待てど 君が来まさぬ
(けだしくも ひとのなかごと きかせかも ここだくまてど きみがきまさぬ)
もしかしたら他の人が中傷するのを聞かれたか。こんなにお待ちしていてもあなたはおいでになりません。
なかなかに 絶つとし言はば かくばかり 息の緒にして 我恋ひめやも
(なかなかに たつとしいわば かくばかり いきのおにして われこいめやも)
いっそ絶交するとでも言ってくれたらこんなにも命をかけげ私が焦がれることはないだろう。
思ふらむ 人にあらなくに ねもころに 情尽くして恋ふる 我かも
(おもうらん ひとにあらなくに ねんごろに こころつくして こうるわれかも)
私を思っていてくれる人でもないのに熱心に心を尽くして恋しく思っている私ですよ。
北山茂夫さんは「人なつこい家持の人柄が濃くにじみ出ている。」と書いておられます(「大伴家持(平凡社)」)が、私には同性への熱烈な友情?愛情?の込められた歌だと感じられます。
当時の貴族の常として多くの交友関係を持つ家持ですがその中で最も家持との関係が深かったと考えられるのが、大伴池主(いけぬし)と橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)です。
大伴池主は、738年10月に橘奈良麻呂の主催した宴に、家持らと集い、歌を読んでから、756年3月に家持らと宴を持ち、757年橘奈良麻呂の変に連座して投獄されるまで、家持と20年以上の交流をもつ人物です。
池主は、おそらく家持の従兄弟にあたり、家持が越中国守に任命され赴任した時に、すでに越中に掾(掾)として着任しており、家持にとっては仕事の上でも歌作の上でもよき盟友でした。747年、30歳の家持は、越中での慣れない寒さに二週間病に臥し、この間、池主と歌のやり取りを行っています。このやり取りの中での池主の詩歌に「『桃花と紅』『紅と娘子』の語句によって情景を歌い上げた最初の歌として特筆されてよい」と藤井一二さんは「大伴家持〜波乱に満ちた万葉歌人の生涯〜(中公新書)」に書いておられます。家持の最も有名な歌として有名な「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女」を導く詩歌ということですね。この歌は越中国での最後の春、751年3月1日(陽暦では4月15日)に詠まれました。
(はるのその くれないにおう もものはな したでるみちに いでたつおとめ)
大伴家持 巻十九 4139
春の庭園に桃の花々が日の光に照らされて紅に輝いている。その桃色の光が降り注ぐ下の道にふとたちあわわれた美しい乙女よ。
美しい歌です。(写真は家の近くの公園のハナモモです)
藤井さんが本の副題にあげておられる通り、家持は波乱に満ちた生涯を送りました。彼の人生は幾多の騒乱の中に翻弄されたとも言えます。家持12歳の時の「長屋王の変」後、藤原氏を重用した聖武天皇は、地震や飢饉や疫病の流行の続く中、都をあちらこちらに変え、落ち着くことを知りませんでした。家持23歳の時には「藤原広嗣の乱」が起こり、27歳の時には家持が仕えていた「安積親王」が変死します。藤原仲麻呂と橘奈良麻呂の対立は深まってゆき、756年聖武上皇が亡くなることで均衡が破れ、757年家持40歳の時に奈良麻呂一派は逮捕、一掃されます。この間家持は佐保大伴家の跡取りとして、難しい人間関係の中で舵取りをしなければなりませんでした。そして彼は、池主や橘奈良麻呂と訣別の道を選ぶことになります。
「池主は幼少期を含めて生涯を通じて家持と集いを共にする機会も多く、その性格と歌作の才をもっとも評価しうる立場にあった。家持の苦悩する人間関係とともに自らの歌作に留まらず大伴氏を中心とする一大歌集の編纂に向けて情熱を傾注する家持を目の当たりにし、池主自身が家持を政局に巻き込まない方向でそこから離れる道を選んだのだと推察する。」と藤井一二さんは書いておられます。
幼馴染でお互いの何もかもを知り尽くし磨きあった池主、そして同様に若い時からの盟友奈良麻呂との別れは家持に大きな傷を残したことでしょう。758年41歳6月因幡国守に任ぜられた家持は、翌759年正月、国庁の年賀の宴で寿歌を披露した(この歌も前年7月以来の歌)後、歌を詠まない歌人となるのです。
新しき 年の始の 初春の けふ降る雪の いや重け吉事
あたらしき としのはじめの はつはるの きょうふるゆきの いやしけよごと
大伴家持 巻二十 4516
新しい年の始めの今日降る雪のように多くの人々に吉事が重なりますように
その後家持は、薩摩国守に左遷されますが、764年には仲麻呂も滅び、淳仁天皇は淡路島に流され、称徳女帝が重祚します。都は不穏な空気に満たされていました。そんな中で家持はゆっくりと出世していき、桓武天皇が即位した781年64歳でようやく正四位となり、66歳で中納言に昇進します(父の旅人が中納言となったのは家持が生まれた旅人54歳の時でした)。しかし、67歳という高齢で征東将軍として遠く陸奥国に向かうこととなり、そこで785年68歳で亡くなったとされています。
しかし家持は死後も安泰ではありませんでした。785(延暦4)年長岡京造成の中心人物であった藤原種継暗殺事件に連座して除名処分となり、家持の息子の永主は隠岐国に流罪となったのです。それから20年の時を経て、806(延暦25、大同元)年、桓武天皇はこの事件に連座した人々を許し、官位を復しました。この時永主が生きていたかどうかはわかりません。
万葉集という素晴らしい歌集を最後にまとめあげた大伴家持、彼の一生は波乱万丈のものでした。そんな中、家持は歌を読むことをやめ、万葉集を編纂することで同時代を生きた人々を偲び、歴史の中で翻弄された、様々な境遇の、多くの人々への鎮魂を行ったのではないでしょうか。
万葉集の最終歌で、「雪が降り積もるように多くの皆の上に幸せが降り積もりますように」と願った家持の心持ちが哀しく響きます。
2020水無月24日