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家持の喜びと悲しみ〜插頭(かざし)② 〜今城

万葉集の中で「ほよ」=「ヤドリギ」を題材にした歌は、家持が、富山県高岡市伏木の国府(現在の勝興寺)で、750(天平勝宝2)年正月2日の宴席で詠んだ歌のみです。先日あげたブログでこの地の石碑と歌を紹介しました。 https://manabimon.com/yakamotiokkaketabi2takaoka3/

今回は、まず、この歌の内容について触れたいと思います。

あしひきの 山の木末の 寄生木取りて かざしつらくは 千年寿くとそ(巻十八4136)

あしひきの やまのこぬれの ほよとりて かざしつらくは ちとせほくとそ

山の梢(こずえ)のやどりぎ(樹木に寄生する常緑樹、尊重された)を取って髪に挿すのは千年の寿を祈ってのことだよ。

お正月に千年の寿を祈り歌を詠じることは、当然のことなのですが、ここで「ほよ」=「宿り木・ヤドリギ」を素材にして詠んでいるところに家持の特徴がある、と高岡市万葉歴史館の新谷秀夫さんはおっしゃっています。(万葉名花百種鑑賞 新典社 https://www.amazon.co.jp/%E8%90%AC%E8%91%89%E9%9B%86%E5%90%8D%E8%8A%B1%E7%99%BE%E7%A8%AE%E9%91%91%E8%B3%9E-%E5%B7%9D%E4%B8%8A-%E5%AF%8C%E5%90%89/dp/4787978551

「ヤドリギ」は欅(けやき)、桜、などの、落葉する高い木に寄生する常緑樹で、秋から冬に赤または黄色の球形の実をつけ、クリスマスのリースなどにも重宝されています。

(植物図鑑エバーグリーンより)  https://love-evergreen.com/zukan/plant/11064

宿り木について書いた面白いサイトを見つけました。ヤドリギを見つけたいならば、落葉樹の葉が落ちる冬なんだそうです。「ヤドリギの魅力」。家持の歌にも触れておられます。また、富山に近い長野県では今でもヤドリギのことを「ほよ」「ほや」と呼ぶそうです。 https://buna.info/article/1996/

このサイトの写真をお借ります。ヤドリギはこのような実をつけるそうです。

冬枯れした落葉樹の林の中で、ヤドリギだけが鮮やかな色で茂り、実をつけている。そこに人々は永遠の命を感じ、世界各地でヤドリギを身に付けることで長寿を祝う習俗があるのです。しかし万葉集の中で、ヤドリギの歌はこの一首のみ。地方の風景の歌も多くあるのに、何故なのでしょう・・・。大きな木を切り倒して作った都を転々とした家持には「ほよ=ヤドリギ」は、珍しい風景だったのかもしれません。

新谷さんは次のように書いておられます。「越中での家持は、生まれ育った都と異なるものに対する驚き、つまり《驚異》を数多く歌にしていた。おそらく「ほよ」もまた、そのひとつだったのだろう。越中に来て初めて知った習俗、その《驚異》を家持は歌に詠んだ。その結果、唯一ヤドリギが「万葉集」に登場することになったのである。」

この歌には次の歌が続きます。

正月たつ 春のはじめに かくしつつ 相し笑みてば 時じけめやも (巻十八4137)

むつきたつ はるのはじめに かくしつつ あいしえみてば ときじけめやも

正月に暦が変わる。新春の今日の日にこのようにむつみあっていれば、この楽しみがどうして今日だけのものと思いましょう。

正月の儀礼的な歌、と取ることもできるかもしれませんが、この歌からは、家持の笑顔が溢れてくるように私には感じられます。越中国で、大伴池主、久米広縄など、多くの信頼できる人々と知り合い、また、《驚異》に満ちた自然、風土に感嘆していた家持が、ヤドリギを頭に挿して皆の幸せを願っている情景を思い浮かべます。

万葉集巻十九の冒頭「春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ少女(4139)」からの連作十二首は、この年の3月1日(陽暦4月15日)から3日までの間に詠まれ、「越中秀吟」として名高いものです。私には、この「ほよ=ヤドリギ」の歌は「越中秀吟」の前奏曲のように感じられます。

 

翌年家持は少納言となり、越中国に別れを告げ都に帰る途中、越前国で池主、広縄と出会い萩の花を插頭(かざ)して寿を願い別れを告げました。 https://manabimon.com/%e8%90%a9%e3%81%ae%e8%8a%b1%e3%80%9c%e5%ae%b6%e6%8c%81%e3%81%a8%e6%b1%a0%e4%b8%bb%e3%81%a8%e5%ba%83%e7%b8%84/

草木を頭に挿して寿を願うことは当時の風習だったのですね。

しかし、万葉集の最終巻二十の、最後から二首目、插頭できなかったという歌が載せられています。

秋風の すゑ吹き靡く 萩の花 ともに插頭さず あひか別れむ (巻二十 4515)

あきかぜの すえふきなびく はぎのはな ともにかざさず あいかわかれん

秋風が葉末に吹いて靡き伏せる萩の花、それを共に插頭にする機会もなく今お互いに別れるのだろうか。

758(天平宝字2年)、大伴家持は、6月16日因幡国守に任命されました。出立の直前の7月5日大原真人今城宅での別れの宴の歌一首のみが万葉集に残りました。それがこの歌です。前年の757年7月4日に発覚した橘奈良麻呂の変により、盟友池主は死に、一年の後、この変を遠因として家持は左遷されたと考えられています。まだ萩の開花の時期ではなかったので、「萩の遊び」をすることなく「寿きを祈ることもなく」別れていく悲しみを歌っています。

大原真人今城とは、どのような人だったのでしょうか。

穂積皇子と坂上郎女の子か?、とされていますが、それにしては官位が低いという反論もあります。(坂上郎女は家持の母代わり、歌の師、でもあり、越中にも同行した家持の妻の坂上大嬢の母でもあります。坂上郎女は、はじめ年の離れた穂積皇子に愛され、後、大嬢の父である大伴宿奈麻呂と結ばれました)。あるいは、高安王と大伴郎女の子か?、という説もあります(大伴郎女は大伴旅人の妻として知られます。同一人物ではあるという説とないという説があります)。

要するにわからないことが多いのですが、大伴家とゆかりの深い人物であったことだけは確かです。

今城と家持、そして池主が頻繁に宴で歌を詠み合ったのは755(天平勝宝7)年から758年(天平宝字2年)です。この頃、一時、今城は家持(兵部少輔)の直属の部下(兵部大丞)だったのです。

池主と家持が会った最後の記録は756(天平勝宝8)年3月です。その後11月に大原真人今城が池主と会い、歌を残しています(家持は参加していません)。今城と池主は大伴家=家持の今後のことを話し合ったのではないかと藤井一二さんは推測しておられます。(大伴家持〜波乱にみちた万葉歌人の生涯 中央公論社)

今城と家持は、756(天平宝字2)年7月5日、插頭(かざし)を行うことなく別れます。この別れによって、「今城の和歌筆録が途絶え、『万葉集』は後半生の家持歌を失うことになる」(万葉集全訳註(四)中西進講談社文庫)のです。悲しい出来事でした。

今城は772年に駿河守となったことがわかっており、その後については記録がありません。この年の家持の自署のある太政官符が二つ残っています。家持は太政官にて執務していたのでした。2年後、家持は相模守となりますが、駿河守には山辺王が任ぜられており、以後の今城の消息はわかりません。

家持と今城、万葉集筆録が絶えた後の十六年間以上、この二人はどのようなやり取りを交わしていたのでしょうか。

2020.9.9(水)本日は旧暦では7月22日です。

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