1945年8月6日(月)午前8時15分、広島に原子爆弾が投下されました。76年前の出来事です。
76年後の、2021年7月14日広島高裁は、原爆投下後広島市郊外などに降った「黒い雨」を浴びた人たちに対し、健康被害の有無に関係なく「被爆者」にあたる、として、被爆者健康手帳の交付を命じた昨年7月の一審広島地裁の判断を支持しました。
http://sahi.com/articles/ASP7G56DRP7FPTIL02K.html
7月26日菅首相は上告を断念し、健康手帳の交付が行われることとなりました。「いまさら」との思いもありますが、しかし、交付される事になり本当に良かったです。
明日8月6日、男子サッカーが東京オリンピックの三位決定戦に挑みます。監督の森保監督は、長崎県出身で、広島で選手監督として過ごしたこともあり、8月6日という日について強い思い入れを持っており、今日の記者会見で、「明日は世界で初めて広島に原子爆弾が投下され、多くの尊い命が失われ…、大切な人々の命や生活が失われてしまった日で、今もなお心の傷を負って多くの人が生活をしているということを世界の多くの皆さんと共有できれば幸いです」と話したそうです。
https://www.asahi.com/articles/ASP8564SQP85UTQP01C.html
去年の夏にも書きましたが、私の母方の祖母は広島原爆で被爆しました。祖母宅のお隣に赤ちゃんが生まれたので、お隣の代わりに勤労奉仕に広島市内に祖母が出かけた朝、原子爆弾が投下されたのです。その日、太陽に照らされる中、祖母は麦わら帽子をかぶって歩いており、その帽子の陰となった顔と首は火傷から免れましたが、体の前半分を火傷、なんとか自力で自宅に戻ったとき、顔が火傷を負っていなかったために、祖母とわかったそうです。しかし終戦の前日14日、「日本は負けるわね」と言って息をひきとりました。
母はそのとき小学校5年生。集団疎開で、現在の広島市安佐北区安佐町の安楽寺に寝泊まりし、小河内(おがうち)小学校に通っていました。(6年前2015年7月、母と一緒に安楽寺に行きました。前年まで広島市の小学校の校長先生をなさっていた住職さんが親切に案内してくださいました。)8月6日の朝、空がピカッと光ってドンと大きな音がした、そしてその日の昼前、この地区にも黒い雨が降ったそうです。誰が言い出したか子どもたちの間でも「新型爆弾」という言葉が囁かれたそうです。
8月15日に終戦を迎え、集団疎開をしていた子どもたちもくやし涙にくれました。それから約二週間後、疎開を終える前日に、何人かの子どもたちが順番に先生に呼ばれました。母もその中の一人でした。祖母の死を告げられた前後、なぜか黒い蝶が母の周りを飛んでいたと言います。そしてその後も、母にとって大切な出来事のあるとき、必ず黒い蝶が飛んでいたそうです。母にとって黒い蝶は自分を守ってくれる祖母だったのです。
私がこの話を聞いたのは小学校5年生の時でした。母が祖母を亡くした年のことです。母は私が小学校5年生の夏以後、私をどう育てていいかわからず呆然としたと言います。自身の母の思い出がなくなってしまったからです。母は「8月は嫌いだ。蝉の鳴き声は嫌いだ。」と8月を迎える度に言います。
「アメリカは嫌い。ソビエトは卑怯。」という母に対して「敗戦は確実だったのに、戦争を早く終わらせなかった日本自身が悪いんだ。」と言ったところであまり意味をなさないと思います。しかし、戦争をいたずらに長引かせたことによって、広島長崎以外でも多くの罪のない人々が空襲によって命を落としたこと、それを、よその国のせいにすることはフェアではないとおもいます。もちろんだからと言って、原爆投下を決めたアメリカが正しかったとは全く思いません。戦争に正義なんか絶対にない、戦争は絶対に許されない行為だ、と強く思います。
祖母が亡くなったのは33歳。彼女の兄は中国で戦死、弟はシベリア抑留を、夫である祖父は南方戦線を生き抜きました。
今、祖父母やその兄弟の曽孫たちがその年齢を越えつつあります。黒い蝶は今もわたしたちを守ってくれていると感じます。
2021年8月5日 万葉集の歌に「蝶」が登場しないことについて、多くの人が論考しています。その昔、「蝶」は優美なものというよりは、畏怖の対象、霊魂とつながる存在であったようです。図書館振興財団「図書館を使った調べる学習コンクール」の2019年調べる学習部門、毎日新聞賞を受賞した日比野陽子さんの発見は面白かったです。
https://concours.toshokan.or.jp/wp-content/uploads/contest-summary/230025.html