詩の世界

万葉挽歌(レクイエム)人形からみる古の奈良

平城京跡いざない館で素敵な人形展が開かれていると友達から聞き、8月29日(金)に行きました。

『万葉挽歌(レクイエム)〜人形から見る古の奈良』…素晴らしい展覧会でした。

途中作者の永井さん(75歳)が登場し、お話を聞くことができたのもラッキーでした。9月1日までの展覧会でしたが、台風の影響で残念ながら本日が最終日となってしまったことが、お話の途中でわかりました。

https://www.youtube.com/watch?v=Uk46Q2u7c-0

人形たちの生みの親、永瀬卓(たく)さんは、定年退職後、石塑粘土を使っての人形製作を始めました。永瀬さんは「有間皇子の悲劇」に強く心を動かされ、その孤独と辛さを人形で表現したいと強く思い、その造形に心血を注ぎました。その成果が、次の2体の人形です。

有間皇子の父は、孝徳天皇です。有力者中大兄皇子によって、難波宮に置き去りにされ、654年憤死しました。その後政争に巻き込まれるのを避け心の病を装ったりする中、658年19歳になった有間皇子は、病気完治を斉明天皇に伝えました。しかし、蘇我赤兄に唆され裏切られ、謀反の疑いをかけられ、「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らない」と答えるも捕えられ、翌々日和歌山県海南市藤城坂で、絞首刑に処せられました。

その時に詠んだ歌が二首残っていて、その悲劇は多くの人々の心を捉え続けています。

磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還りこむ (万葉集巻2 141) 

磐代の浜の松の枝を引き結んで、無事を祈る。生きて帰ってくることができたら帰り道にまた見ることができるだろう。

家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(万葉集巻2142)

家にいたら食器に盛って食べる飯だのに、草を枕とする旅の身なので椎の葉に盛って食べることだ。

私も有間皇子の悲劇に心動かされた者の一人です。この二体の人形の展示を見ていると、彼が歩き出し、物語を語り、紡ぎ出すような気持ちになりました。

永瀬さんのお話では、有間皇子を作ったからには、彼の気持ちを聞いた(井上靖の小説『額田王』の中のシーン…有間皇子が「不幸にならないと良い歌を作れないような気がする」と語った…私もこのシーン忘れられません)額田王を作らずにはいられない、と額田王を作成したそうです。その衣装に、永瀬さんとしては初めて強い色の赤を用いたそうです。永瀬さんとしては少し躊躇する色だったそうですが、私は、額田王という女性の強さしなやかさ感度の鋭さを的確に表現していてぴったりだ、と感じました。そしてこの表情がまた素晴らしい。悲喜こもごもを受け入れ、歌の力で人々の心を動かした額田王の繊細な強さがよく表れていると思いました。

永瀬さんは、有間皇子のエピソードから、「才能ではなく心のあり方からよい作品が作られる」ということを痛感し、ご自分が人形を創作する気持ちの支えとされたそうです。その人形が、人々の心を動かし、今回の作品展に至ったのです。

有間皇子と同様、その悲劇的な運命と、心の叫びを残した歌によって、人々の心を惹きつけてやまない、大津皇子と大伯皇女もいました。天武天皇亡き後、草壁皇子を皇位につけたい鵜野讃良皇女(持統天皇)は、大津皇子を謀反の罪で捕らえようと虎視眈々と狙っています。大津は危険を顧みず、斎宮を務める姉大伯皇女のところに赴きます。

 

おそらく2度と会うことはできないだろう、愛する弟を見送る大伯皇女の袖には露が樹脂粘土で美しくも悲しく表現されています。全てが終わった後、大伯皇女は、二上山に葬られた弟を思い、これから二上山を弟と思って生きよう、と歌います。母を早く亡くし、その妹である鵜野讃良皇女に睨まれる中、支えあって生きてきた弟を失う、大伯皇女の喪失感の強さに強く共感した、と永瀬さんは語っておられました。

大津皇子の手中の木簡には、辞世の歌や漢詩がしたためられています。これも永瀬さんの苦心の作。そして、大津皇子は頭巾(ときん)をかぶっていません。刑を執行される前の姿として辱められている様子を表したそうです。胆力あり才能ある、女性にもてる皇子、と評判だった大津皇子の、諦め切った表情が切ないです。

今回の展示の一番人気は、大津皇子亡き後、「髪を振り乱して裸足で走り殉死した」山辺皇女だそうです。山辺皇女は天智天皇(中大兄皇子)と常陸娘(蘇我赤兄の娘)の間の娘で大津皇子の正妃でした。有間皇子を死に追いやった祖父の因縁が巡ってきたかのように、夫の大津皇子も権力者におもねる人々の心に翻弄され、死んでいきます。その大津を追って自ら死んだ山辺皇女は、永井路子さんの小説『裸足の皇女』のヒロインです。永瀬さんが説明で小説内のシーンに触れておられました。先の『額田王』同様、同じ小説をおそらく同じ頃に読んで心動いた同志のような気持ちになりました。

悲劇性を湛えた姿の中でも穏やかな表情をしている人形たちの中で、この山辺皇女の表情は自らを縊る強い意志に満ちているように感じられ強く惹きつけられます。一番人気だというのもよくわかります。

その山辺皇女の並びに配置されていたのが、天智天皇から次の天皇になることを嘱望されながら壬申の乱で散った大友皇子(弘文天皇)と、その正妃十市皇女(額田王と天武天皇の間の娘)です。十市は、壬申の乱の時、夫を選ばずに父を選び、奈良の地に戻ります。

十市皇女は壬申の乱の総大将となった高市皇子(天武天皇の第一皇子)の想い人であった、というエピソードが永瀬さんから語られました。高市皇子は十市皇女が亡くなった後美しい挽歌を作っています。

山ぶきの たちよそひたる 山清水 酌みにいかめど 道のしらなく(万葉巻2 158)

山吹の花が美しく咲いている山の清水を汲みに行き、蘇らせたいと思うけれど道がわからない。

その高市皇子の肖像はありませんでしたが(是非作っていただきたいと思います!私は、高市皇子を主人公に大河ドラマが作られたらいいな、きっと素晴らしいドラマになるだろう、と思っています)、高市皇子の妃であった但馬皇女と、但馬皇女が愛した異母兄の穂積皇子の姿がありました。

人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る(万葉巻2 116)

人の噂が多くうるさいので、生まれて初めて夜明けの川を渡ることよ

女性から恋人を訪ねていき、しかも朝帰りをする…強い情熱の持ち主の但馬に対して穂積皇子の返歌は伝わっておらず、後に、但馬皇女が亡くなった後、永遠の眠りについた彼女が寒いだろうと、思いやる歌が残っています。永瀬さんは、その歌のイメージに基づいて、始め別の人形を穂積皇子として作り、その上に雪を降らせようと考えたけれど、その人形が若すぎるなあ、ということでこの人形に置き換えたそうです。

その若すぎる(と感じた)人形がこの方です。

志貴皇子として展示されていました。ここでは「葦べを泳ぐ鴨の背に霜が降り、寒い夕暮は、大和が思われてならない」という歌を載せていました。冬のイメージで作ったお姿だからでしょう。

志貴皇子は天智天皇の第7皇子で、685年の吉野の盟約(皇位継承の争いを起こさない結束を誓う)後、冷遇され、和歌などの文化の道に生き、716年に亡くなりました。石走る 垂水の上の 早蕨の 萌え出る春に なりにけるかも」に代表される、自然描写の繊細さが高く評価されています。志貴皇子は没後、54年後に第6皇子が光仁天皇として即位したため、田原天皇とも称されています。

万葉集編纂に大きく関わった大伴家持とその妻坂上大嬢です。実は先ほど出した穂積皇子の像を始め家持、と考えていたそうです。しかし家持の冠位(越中守として赴任するとき)が着ることのできる着物の色が違うということで、その人形は穂積皇子となりました。また家持が越後に妻の坂上大嬢を伴ったと聞いて、二人を寄り添わせるこの形に変えたそうです。お互いを大切に思い、むつみ合う二人の姿が美しいです。

そして家持に和歌の手ほどきをした、家持の叔母である坂上郎女の姿もありました。彼女は、はじめ、年老いてからの穂積皇子の妻となります。多くの恋の歌を詠み、女性歌人として最多の84首が万葉集に収められています。

新しい月になってたった三日ほどの眉が痒くて掻きながら、日々長く慕ってきたあなたにお逢いしたことよ」当時、眉が痒くなるのは、恋人に逢うことができる前兆と考えられていたそうです。この歌は「みかづき」という題で、坂上郎女が甥の家持に歌の手ほどきをした、と考えられています。

人形を作るとき、手の形に特徴があると作りやすい、と永瀬さんは言っていました。一番難しいのは何もしていない手だそうです。なるほどなあ。

先ほどから何度か名前の上がっている高市皇子(天武天皇第一皇子)の長男である長屋王は、720年藤原不比等亡き後、朝廷で権力を握ります。しかし、聖武天皇が即位し、不比等の息子4兄弟が力をつけ、729年に長屋王は失脚し、妻の吉備内親王や子どもたちと共に自害します。

佐保すぎて 奈良の手向に 置くぬさは 妹を目離れず 相見しめとぞ(3巻268)

佐保をすぎてここ奈良山で神に捧げ物をするのは、あなたにいつも合わせてくれることを祈ってのことですよ。

長屋王の死後、藤原4兄弟は妹の光明子を聖武天皇皇后に立て、権力を握りますが、737年天然痘により揃って病死します。「長屋王の祟り」と噂されました。1986(昭和61)年長屋王の屋敷が発見された後、その跡地に開店した「奈良そごう」は、平成12年に閉店、そしてその後に開店したイトーヨーカ堂」も平成29年に閉店しました。地元では「長屋王の呪い」とささやかれています。

長屋王はその屋敷跡から多くの遺品が発掘され、美食家であったことが知られています。それでふっくらとしたお顔に仕上げたそうです。

そして長屋王の天敵と言える光明子は自らを「藤三嬢」と称し、自分が藤原氏の出であることを殊更に強調しました。その強い意思が人形から伺えます。

彼女の直筆の書が残っているのでそれを和紙に写して手に持たせたのが次の人形です。一言で言うのは簡単ですが、大変な労力だったと思います。光明子は福祉事業をおこなったことでも知られており、この人形の優しいお顔はそんな一面を示すように感じました。

光明子の娘が天皇となり(孝謙天皇、称徳天皇)となります。その孝謙天皇に仕え、当麻曼荼羅伝説(一晩で曼荼羅を織った)で有名な中将姫もいました。関西の人には薬や浄瑠璃などで馴染みの深い中将姫で、関東の人たちとは反応が違う、とのことでした。

この手の表情の美しさ、永瀬さんこだわりの作品です。

万葉集中の、大伴家持の代表作を題材とした美しい少女の姿もありました。

春の苑に紅が照り映える。桃の花の輝くように咲く下の道に立ち現れる少女よ

二人の男性から恋心を寄せられ、それを罪深く感じて自害した桜子の姿もありました。永瀬さん「男性が二人の女性から恋心を寄せられて自害したという話は聞いたことがありません。なんなんでしょうねえ」。

春になったら髪飾りにしようと思っていた桜は散ってしまった…」桜子の死を嘆いた男が血の涙を流して歌った歌です。

作者の永瀬さんのお話もとても面白く、人形作りの苦労話や、それぞれの人形の歴史背景や、思い入れや、、、いつまでも聞いていたかったです。友人は一回では物足りなくて二回観にきました。私ももっと早く観にきて、一体一体の物語に心浸しながらじっくり観たかったと思いました。

定年後コツコツと作った人形たちが、作者の手を離れ、多くの人々の心を捉えています。ですから、きっとまた別の展覧会で会うことができると思います。その日を楽しみにしています。

2024年8月30日(金) 奈良平城京跡歴史公園 いざない館にて

追記1)9月1日大阪は晴れています。残念ながら歴史公園いざない館の閉館は変わらないようです。奈良倶楽部ブログで30日のことが詳しく書かれています。

https://naraclubpart3.blogspot.com/

追記2)奈良倶楽部さんからのご縁で、永瀬さんからご連絡をいただきました。この拙いブログをお読みくださったとのこと、大変嬉しかったです。永瀬さんの、渾身の作のお人形たちはたくさんの縁を作ってたくさんの人々の心を動かしています。きっとまた、奈良の地で(あるいは、難波かも、あるいは和歌山かも、あるいは高岡かも、、、)このお人形たちと出会えると信じています。

 

 

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今でも手元にある「長くつ下のピッピ」「やかまし村のこどもたち」が読書体験の原点。「ギャ〜!」と叫ぶほかない失敗をたび重ねていまに至ります。

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