日本を学ぶ

新ドキュメント 太平洋戦争 第一回開戦〜前編〜

先日見逃した番組・「太平洋戦争 第一回開戦〜前編〜」の再放送を録画することができました。週末の今夜、小豆を炊きながらゆっくり観ました。

https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=31839

今、エゴドキュメント=個人の言葉(日記や手記)、に注目が集まっています。研究者たちは、太平洋戦争(1941〜45年)中に個人が残した膨大な言葉(本音)をAIで分析して、なぜリーダーたちは判断を誤ったのか、なぜ多くの市民が大国との戦争に熱狂したのか、解き明かそうとしています。「100人いれば100人の戦争が合わさってこの戦争になってしまった。一人一人の違う戦争を知ることによって我々のいまのリアリティーに近づけて行くことができる。」という関西学院大学渡邊教授の言葉に共感します。

1941年12月8日、国家を破滅へと導く戦争の開始に日本人の多くは歓喜しました。「ごんぎつね」で有名な童話作家の新美南吉は「ばんざあいと大声で叫びながら駆け出したいような衝動も受けた」と記しています。

開戦の前年、都市部ではアメリカブームがわき、ハリウッド映画やジャズが流行していました。国の指導者も国力で勝るアメリカとの開戦を避ける方針でした。それなのに、なぜ僅か一年の間に国の方針や人々の意識が変わったのか?1年間の、人々の言葉=エゴドキュメントから紐解くのがこの番組です。

東京四谷に住む金原まさこさんの育児日記から。昭和15年2月6日に生まれた住代ちゃんに語りかける言葉。「4月18日今日も昨日もすき焼き(おっぱいを出すために)。住代ちゃんあくびをするときの甘い甘い息の匂い、ママは大好きなり。」この日記から分かるように開戦一年前の生活は豊かなものでした。野球見物、宴会、ピアノ、海水浴、動物園などなど。

関西学院大学の計量歴史社会学専門の渡邊勉教授が人々の言葉をAI解析したところ、1940年市民の関心は「生活」にあり、その中の「食」を見るとオムレツ・ビフテキ・ポタージュなどなど多彩なメニューを楽しんでいた様子から、同じ1940年後半から代用品という言葉が多くなり、厳しくなっていることが伺えます。東京の金原さんは「外米になってから子どもの腹壊しが増えた。今月からは麦が入る。大人は我慢するが子どもはかわいそうだ」と書いています。大阪で精米店を開いていた井上重太郎さん「政府はいたずらに統制統制といって〜米の入荷がないので配達することもできん」と不満の言葉。【贅沢は禁止だ】というスローガンが掲げられます。

1940年17歳の笠原徳さんの1月の日記には「午後シネマを観に行った。スター誕生、ロマンティックで美しかった」。彼女はアメリカの友人と文通し憧れを募らせていました。しかし、笠原さん6月の日記では「訓練されたドイツ軍の活躍めざまし」、3ヶ月後「9月27日日独伊積極的な同盟〜三国の力強さ〜ますます心引き締まる」とあります。日本はナチスドイツの人気にわきました。第二次世界大戦で破竹の進撃を行うドイツの様子に人々の心は惹きつけられたのです。中国進出のために米英を牽制したい日本はドイツとの同盟に期待するのでした。

この頃、海軍連合艦隊司令官・山本五十六は危機感を持ってこう訴えました。「日米戦争を回避するよう極力ご同意いただきたい」。戦争関連キーワード出現集の変化を分析すると、意外な結果が出ました。9月の日独伊三国同盟締結時に戦争への意識が高まらなかったことが読み取れます。この頃、政府は三国同盟への批判も言論統制しましたが、反アメリカ感情が高まることへの言論統制も行っていました。それが国民に「戦争」の意識が高まらなかった理由だと考えられます。アメリカとの戦争を招きかねない三国同盟を結びつつ、一方でアメリカと戦争をする余裕はない政府は親米感情を高める方針を取ります。

しかしアメリカは対日本経済制裁を行います。日本のご都合主義は通じませんでした。

その結果、不足した鉄などの資源を補うため政府は市民から供出させました。経済は冷え込みました。1941年、物資不足にあえぐ言葉と戦争への関心が高まっている言葉が急増します。このころからアメリカに対する過激な論調が増えました。「ぼんやりしていても米国とは衝突する。早く覚悟を決めて断然たる処置をとるが良い」と当時のオピニオンリーダー徳冨蘆花はラジオで訴えました。戦争を煽るような様々な言葉が人々を捉えます。

金原さん日記1941年1月29日「日米間の情勢についてだいぶ悲観的な話を聞くようになり、ママたちも本気で心配するようになっている。本当に日米戦が起こったら東京空襲も免れないし、住代ちゃんのような弱い子をお医者もいない田舎に連れて行ってもしものことがあったらと暗然とする。しかし何という時代に生まれあわせたものか!強い母にならねばならない。」

1941年3月。陸軍が極秘で行ったアメリカとの戦力比較のシュミレーションの報告を参謀本部で聞き、石井秋穂陸軍中佐は、次のように書きました。「3月18日 物的国力判断を聴く。〜誰もが対米英戦は予想以上に危険で、真にやむを得ざる場合のほか、やるべきでないとの判断に達したことを断言できる。」この報告を受け、東條英機陸軍大臣らは日米戦争は回避すべきと判断しました。

何も知らない金原さんの育児日記は変化を見せます。「6月2日 今こそ日本の歴史の大転換期であり、住代の育児日記も母の目に映った世の有様を書き記していこうと思う。」「6月23日 世界の情勢はまた大変なことになってきた。独ソ開戦、寝耳に水のこのニュースに世界中大混乱である。日本の立場こそデリケートなものになってきた。」

独ソ開戦10日後の7月2日、それまでアメリカとの戦争を避けようとしてきた指導者たちが決定的な判断ミスを犯しました。日本軍は南部仏印(いまのベトナム南部)に進駐したのです。独ソ戦によりソ連の脅威がなくなったと考えた日本は資源の豊富な南部仏印を抑えたのです。日本の甘い予想に反し、アメリカは対日本への石油輸出をストップします。日本は石油の9割をアメリカからの輸入に頼っていたので大きな打撃を受けます。

海軍のリーダー永野修身は、「今後はますます兵力の差が広がってしまうので今戦うのが有利である」と言います。一方、海軍次官澤本頼雄は開戦に強く反対しました。「資源が少なく国力が疲弊している状態では戦争に持ちこたえることができるか疑わしい。〜(日米の外交交渉こそが)国家を救う道である。」

7月、物資不足はさらに人々を襲います。7月30日古川ロッパは「うまいものを食ったのはいつのことなりしか。肉無しデーついに冗談ではなく実現す。」と書いています。このころ政府が推奨したタンパク質を補う食事は昆虫食・・・。大阪で精米店を営んでいた井上重太郎さんは「やむを得ない時勢に従うほかはない」と店を廃業し、その日記には、国に協力する言葉や、隣組などの活動が増えていきます。「愛国心を持って」戦時体制のもと多くの国民が協力して国の危機を乗り越えようとしたのです。東京の主婦金原さんは「大東亜建設のため次の日本を背負って立つのは住代ちゃんあなた方なのです。丈夫に育って立派にお国のために尽くしなさい。パパもまた一命を国に捧げねばならなくなるかもわかりません。」「アメリカの参戦も時期を早めるかも」「しかしこれもお国のためと思えば我慢する。」と記します。

自分たちを苦しめているのは政府ではなく、その背後でイギリスやアメリカが経済的に圧迫してくるからだ。敵である英米を叩いたら自分たちの生活も元に戻る、そういう意味で「お国のため」という言葉が素直に受け入れられたのだと思います。」と慶應大学近代日本政治社会史の玉井清教授は読み解きます。

しかし、「愛国心」に違和感を抱いていた人もいました。長野県の学校の教員森下二郎さん、40年6月28日「悪がはびこっている。世界はドイツの戦勝に幻惑されてその行動を肯定し賛美する。悼むべし悲しむべし」、日中戦争を祝う式典に対し「(多くの戦死者)が報じられた。これが祝うべきことであるというのか。これが喜ぶべきものというのか。」戦争に反対する気持ちを押し殺し、表向きは戦争を賛美する教育に手を染めざるを得なかった彼が本音をつぶやく場は日記だけでした。

岐阜県農家の野原武雄さんは妻を過労からの病気で亡くしていました。6月21日「共同植え付け作業4日目で体の具合もだいぶ疲れてくる。ついに父も倒れて仕事できず床に就くようになりたり。」7月11日「本日またもや我が村に5名の〇〇あり。2回目の〇〇故ひとしお、お気の毒の至りにたまらぬ次第なり。」〇〇は伏せ字、おそらく「召集」でしょう。農家の次男三男が続々と召集され戦地へ送られていました。野原さんの息子2人も戦地に送られ1人は瀕死の重傷を負いました。

10月開戦2ヶ月前、日米は外交努力を続けていました。アメリカは中国からの撤退を要求しましたが、陸軍にとっては受け入れがたいものでした。日中戦争での戦死者18万人以上の死を無駄にできないというのです。東條は「日米戦となればさらに数万の人員を失うことを思えは撤兵も考えねばならないが、決めかねている」と記した。膨大な犠牲に判断を縛られた東條英機は内閣総理大臣となります。天皇は日米外交の継続を願って、東條に戦争を押さえる力を期待しましたが、指導者たちは結局は開戦を決定しました。多くの人たちもこの戦争を支持しました。

真珠湾攻撃が報じられた1941年12月8日、人々は記しました。大阪の井上さんはコメ配給事業に携わっていました。「誰が歓喜をせずにいられようか。」岐阜の野原さん「全く我が海軍の強さに驚くほかない。」長野の森下さん「国民は大喜びで浮かれている。しかしこれくらいのことで米英も参ってしまうこともないからこの戦争状態はいつまで続くかわからない。あてのつかない戦争である。」東京の金原さんの娘は1歳10ヶ月、「血沸き肉躍る思いに胸がいっぱいになる、この感激!一生忘れ得ぬだろう。爆弾など当たらないという気で一杯だ。」

開戦に至るまでの人々の気持ちの変化、様々な表情が浮かび上がる番組でした。後になれば明白なことでも、その渦中にいると見えなくなる、わからなくなる、と痛感しました。このような番組を通じて戦争の正体を知ることで私たちは二度と戦争を起こさない力を持つことができるだろう、とも思いました。

2021・12・10(金)美味しい小豆が炊き上がりました。平和に感謝です。今日はかんさい熱視線で吉野の山奥に墜落したB29の乗組員について調べた番組を放映していました。https://www.nhk.jp/p/osaka-nessisen/ts/X4X48GXNX2/schedule/?area=270

生存した乗組員にあたたかく接した村の人々・・・しかし警察に引き取られた彼らを迎えた大阪は彼らに焼かれた街、捕虜には苛烈な運命が待っていました。76年後キーワードは「許し」ではないか、と遺族の方がおっしゃっていました。戦争の犠牲者は敵にも味方にもいる・・・だから戦争をしてはいけないのだ、とも。

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たつこ
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今でも手元にある「長くつ下のピッピ」「やかまし村のこどもたち」が読書体験の原点。「ギャ〜!」と叫ぶほかない失敗をたび重ねて今に至ります。心理し(士・師〜〜この二つの「し」の違いは何だろう?)です(臨床心理士・公認心理師)。喜びも多かった教員経験の中、一方で、えも言えぬ息苦しさも感じ、心理しの資格をとって、今は相談活動を行なっています。

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