自分と向き合う技術

安野光雅さん〜少年時代・絵のある自伝

昨年(2020)12月に94歳で逝去された安野光雅さん。「旅の絵本」(福音館書店)https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=287が初めての出会いでした・・・と思っていたのですが、今、安野さんの著作を年代別に見ていて、「貝になった子ども」松谷みよ子著(偕成社1975年)https://www.amazon.co.jp/%E8%B2%9D%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82-%E5%81%95%E6%88%90%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-2011-%E6%9D%BE%E8%B0%B7-%E3%81%BF%E3%82%88%E5%AD%90/dp/4035501107を、なぜか父が買ってきて、読んだのを思い出しました。あの本の挿絵が安野さんだったんだ・・・なるほど。「天動説の絵本てんがうごいていたころのはなし」(福音館書店1979年)https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=383も父が買ってうちに置いてあった本でした。

安野さんの絵も文章も、独特のリズムがあり、色があり、魅力的ですよね。

安野さんは、大正15年3月生まれ、大正15年の早生れは、父と同じで、私自身は、ただそれだけのことを理由にして、安野さんに勝手に親近感を抱いていました(もちろんその絵や文章が大好きだからこそですが)。

2021年2月14日(日)、NHKの日曜美術館でアンコール放送された安野光雅さんの番組(9年前、『旅の絵本Ⅷ 日本編』を制作していた安野さんに密着したもの。番組中、安野さんご自身による『絵のある自伝』の朗読がありました。)は大変な反響があったそうです。https://www.nhk.jp/p/nichibi/ts/3PGYQN55NP/episode/te/PW32JP7N7K/

取り上げられた「旅の絵本」シリーズは軒並み出版社で品切れ!で、早速重版、3月には本屋さんに積まれました。私自身はこの番組を見て「絵のある自伝」https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167901028を図書館に予約しました。同じ思いの方が多かったようで、なかなか順番が回ってこず、先日ようやく手に入った次第です。「少年時代」https://www.yamakawa.co.jp/product/15072 こちらはすぐに借りることができたので合わせて借りました。

「少年時代」の最後の「天皇の家庭教師」がとても心に残りました。ヴァイニング夫人の最後の授業の言葉。『私はあなた方に、いつも自分自身でものを考えるように努めてほしいと思うのです。誰が言ったにしろ、聞いたことを全部信じ込まないように。自分自身で真実を見出すように努めてください。ある問題の半面を伝える非常に強い意見を聞いたら、もう一方の意見を聞いて、自分自身はどう思うかを決めるようにしてください。今の時代にはあらゆる種類の喧伝がたくさん行われています。そのあるものは真実ですが、あるものは真実ではありません。自分自身で真実を見出すことは、世界中の若い人たちが学ばなくてはならない、非常に大切なことです。』安野さんは『この言葉以上に、付け加えることは何もない。』と書いておられます。同感です。

「絵のある自伝」でも昭和7年に津和野小学校に入学した安野さんの幼少期からのことが軽妙な語り口と美しい挿絵で描かれています。2011年日経新聞「私の履歴書」が元になったそうです。(日経の「私の履歴書」は長い間続いていますね。この5月からは吉行和子さん、BSで朝7時15分から「あぐり」の再放送が始まっているのに合わせたのかな、この連載もとても面白いです。)

日経新聞連載中から反響が大きかった話、「つえ子のこと」は、私にも大変印象に残りました。誰よりも貧しい家に生まれたつえ子さん・・・・・『きっとつえ子の心の底には貧しさを超える「誇り」があったのだと思っている。〜〜〜つえ子の幸せは〜初めは苦労したけれども、自分の力でついに幸せを勝ち取ったことであろう。〜「幸せの道は、一本の道ではない」といいたいのだ。』

安野さんは、津和野小学校から、宇部工業学校に進学しますが、繰上げ卒業して1944年1月から飯塚市の鉱山で発破係として働きます。『一斉に職場に追いやられた。これもほとんど召集令のようなもので職業を選択する余裕はなかった』そしてわずか三ヶ月後の4月に召集令状を受け取るのです。19歳でした。そして四ヶ月後、8月15日、危うく命を失わず、瀬戸内海の対面の鷲羽山に移って汽車を待ち、9月になってから父母の元に帰ったのでした。安野さんは理工系の学生が徴兵延期になることを知らなかったそうです。のちにそのことを友人に話したら「それは安野さんの無知というほかない」と言われたそうです。安野さんは『わたしは戦争には反対だが、学徒と農民を差別することにはもっと反対である。徴兵猶予などだれが考えだしたのだろうとおもう。』

敗戦の混沌の中、安野さんはいろんなことをします。そんな混沌の中でも、いちめんの焼け野原だった徳山には、絵の具工場ができていたそうです。東京では、焼け跡を声高く金魚屋さんが通っていたそうです。どちらも不思議な光景ですが、人にとって何が必要なのか、考えさせられます。

安野さんは絵が大好きで、絵の先輩と聞くとどこへでもいったそうです。そして学校の先生になります。玉川学園の学長小原先生にその絵を見出され、東京の玉川学園に勤めます。でも一年で都内の公立の学校に移ります。(玉川学園といえば先日「文科省と協議して、入学を半年繰上げ、9月入学の幼小中高の一貫教育を行う」というニュースを読みました。学長はやはり小原さんでした。国際標準の9月入学というのは魅力的ですね。一方で幼稚園からずっと同じ学校で高校を卒業するという純粋培養教育には危うさも感じます。二つ良いことはない、と言います。良い面悪い面両方あってどちらを取るか決める他ないのはここでも同じですね。それにしても私立校だけでなく公立校でも同様の取り組みをしてほしいと、私は思います。)

共稼ぎの教員同士で結婚し、子どもが生まれます。安野さんは「自分の子どもの、四歳までのありようは、そこを支店とし、その後の子どもがするであろうあらゆることと釣り合いがとれているというが、本当にそうだと思う。この子どもたちのしてくれたことに、わたしは一生をかけて報いたいと思っている。家庭を保持する最強の砦はこの子どもたちであったのである。」と記します。母と安野さんが口論したとき、「おばあちゃんもすきだよ、お父ちゃんもすきだよ!」といって泣いた、指圧師に肩を強くしてもらい顔をしかめて痛みに耐えていたとき物差しでその指圧師の頭をぶった、という子どもたちのエピソード、ほのぼの美しいエピソードですね。

そのお母さんが亡くなった1984年4月1日、安野さんは海外旅行中でした。「石は自然石のままのかたちにし、野の墓という字を書いて、それを彫ってもらった。〜戒名はない。」という潔さ、素敵です。

「旅の絵本」は1977年に1冊目が出版されたそうです。「文字がなくても絵本になる」「絵や音楽をことばの説明を仲立ちにして見たり聞いたりしようとするのはことばに頼りすぎた者の悪い癖である」。その通りですね。1冊目に描いた脱獄犯をその後みなが探した、とのエピソードにはそんな読み方をしていなかった私には目からウロコでした。

司馬遼太郎さんとのこと、佐藤忠良さんとのこと、ABCの本のこと、即興詩人のこと、などなど、興味深いエピソードが次々と軽妙に語られます。白眉は「空想犯」。1958年以後珍なる年賀状を作り続け、1970年刑務所からの年賀状を送ったら、多くの人が本当にして、かなり大変な事態になったエピソードには笑わせられもし、そうか・・・とも思いました。「書いた本は〜むしろ通じないことの方が多いのである」「冗談が多すぎた。まだでも空想癖はやまない。」

おわりに、は「篆刻のこと」という文章でした。篆刻がすき、という安野さん。(以後手前味噌ですいません。私の父も篆刻がすきで、父はたくさんの篆刻を彫りました。「戒名はいらない」といった父と安野さんを重ねる私です。)あの目まぐるしい時代を生き抜いた多くの方々への感謝と敬意、そして安野光雅さんという稀有な才能の開花への拍手をもって「絵のある自伝」読み終わり、閉じました。

開館20周年を迎えた安野光雅美術館http://www.town.tsuwano.lg.jp/anbi/anbi.htmlへぜひ行ってみたいです。

京都府京丹後市の、森の中の家https://mori.wakuden.kyoto/category/morihouse/では安野光雅展を開催中、緊急事態宣言が終わったら、ぜひここにも行ってみたいです。

2021年5月7日(金)緊急事態宣言が延長されることになりました。今の状況では仕方がないですね。医療関係の方々への感謝の念を忘れずここはじっと我慢ですね。

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英語学習・音楽制作・WEBデザイン・体質改善など、色んな『まなび』と『教育』をテーマにnelle*hirbel(通称ねるひる)を中心に学びクリエーターチームで情報を発信しています。 YouTubeチャンネルでは、音楽×英語の動画コンテンツと英語レッスンを生配信しています。

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