詩の世界

戦火のホトトギス(ETV特集)

番組は、美しい声で鳴くホトトギスの映像から始まります。

血の凍てし 操縦桿を 持ちしまま  (伏せ字になった部隊から届きました)

突撃の 命待つ丘に 蛍飛ぶ    (中国大陸から届きました)

雑誌「ホトトギス」1944(昭和19)年5月号に載った俳句です。

ホトトギスは、1897年1月から124年続く、今も毎月1回発行されている雑誌です。正岡子規・高浜虚子という名前は、誰もが一度は聞いたことがあると思います。子規のあとを継承した虚子が編集長をつとめていました。戦況の悪化で、昭和20年6月、7月、8月、9月の4ヶ月間休刊されたのみです。虚子の作った「雑詠」と呼ばれるコーナーが看板企画。投稿から編集長が選んだ句が掲載されます。

1945(昭和20)年5月号 びっしりと俳句の埋まった頁は伏字だらけです。たくさんの人が投稿しているにも関わらずその人たちの居た場所は軍事機密だったのです。

1943(昭和18)年昭南(シンガポール)から。椰子浜に コレラ防疫 陣を張る 敬二

芦屋市の虚子記念文化館の資料から、この人は、戦後、福島県双葉町で医院を開いていた石田忠治さんだということがわかりました。現在は原発事故で被災後、大半が帰還困難区域とされています。人気のない街で一時帰宅していた地元の方に聞くと「旧国道沿いに枝垂桜のあるところに門があるのよ。優しい先生でした」と教えてくれました。今は誰も住んでおらず、枝垂桜も枯れ木寸前です。1897(明治30)年ホトトギス創刊の年に生まれた石田さん。1936(昭和11)年29歳のとき、イギリス領シンガポールに三井物産が経営するゴム園の医師として赴任、華僑の反日運動が広まり、明治から入植した日本人が引き上げ始めた頃です。石田さんは現地の言葉を覚えて医療に当たり、ホトトギスへ俳句を送り続けました。

見送りに 来て蝶々や 船の上    敬二

讃美歌の 野辺の送りや ゴム落葉  敬二

水の家 窓みな開けて 夜のまどゐ  敬二

1937(昭和12)年日中戦争勃発、政府は国家総動員法のもと国民を戦争へと駆り立て、文学や俳句にも戦争への協力が求められました。当時の編集長だった虚子は新しい季語を多数増やしています。昭和15年版の新歳時記には、「熱帯」「赤道」「マラリア」「スコール」など新しく作られた季語が並んでいます。日本は四季のない国々へと兵士を送りはじめました。

マラリアに 罹り帰朝を のばしをり  敬二

(帰朝は日本に帰ることです。)

支那人の よそよそしさよ 夕涼み  石田とみ(敬二さんの妻)

石田夫妻は日本に帰国しますが、1941(昭和16)年12月真珠湾攻撃と同時に日本軍はマレー半島に上陸し、イギリス領シンガポールを陥落させ、昭南と改名します。石田さんは軍属の医師として再びシンガポールに赴き、熱帯の伝染病が軍に及ばないよう町の防疫に携わりました。

椰子浜に コレラ防疫 陣を張る   敬二

戦地からの便りにも度々投稿しています。「もう日本に帰らないつもりで(ココも日本ですが)頑張ります。」

ホトトギスには雑誌の投句票を貼って投稿するという決まりがありましたが、戦線にいる人々の軍事郵便は投句票がなくても受け付けることにしました。軍事郵便の検閲は戦地で行われました。俳句自体への検閲は行われていませんでした。いや検閲に通った俳句のみが届いたのです。

シンガポール(昭南)での会合で、石田さんは「人口の多い華僑を無視して南方に進出することは難しい」と発言しています。「彼らの習慣および宗教的なことを無視するということは行政上絶対にできないことではないかと思われます。」・・・しかし日本軍は強引に抵抗する華僑の粛清へと向かいました。

雲の峰 動く大軍 征くごとく  敬二

1944(昭和19)年石田さんは軍属をやめ昭南に個人医院を開き、人種や民族に関係なく患者を診るようになりました。・・・・番組では石田さんのその後が語られることなく、次の登場人物の物語へと移っていきます。

 

1945(昭和20)年のホトトギスから。

敵の山 味方の山と 夕焼けぬ  陶子 (中支より)

2021(令和2)年7月号のホトトギス、巻頭(数ある投句の中のトップ)に同じ俳号「陶子」での投句が、ありました。

恋猫の 引き返す塀 ありにけり  竹下陶子 

俳号・陶子は、島根の陶芸職人の生まれの広島県福山市の竹下基之さんでした。去年夏96歳で亡くなっていました。「戦争のことは一切言わなかった。雑談のできない人。すっごい怖かった」と娘の小野加栄さん。俊子さんに送った手紙には、いつも俳句が入っていました。戦後同郷の二人は結婚し福山に移住しました。

我も妹も コスモスが好き 手折(たお)らばや

1943(昭和18)年20歳で召集、翌年陸軍歩兵部隊二等兵として中部中国へ。出征前の写真の手もとには雑誌「ホトトギス」がありました。出征の翌月、派遣先の中国からのホトトギスへの便りには「これからは戦陣の間俳句を持って心身を培うつもりです」とありました。

竹下さんの死後遺されたたくさんの雑誌「ホトトギス」。その中の出征直前の一冊からは「雑詠」のページが取り出されていました。戦地に携えていったのでしょうか。「色も変わって粉になりそう(娘の加栄さん)」です。

「日本に帰る部隊の人に出会うとホトトギスへの投句を投函してくださいとお願いしたというとりました」と妻の俊子さん。「 敵の山 味方の山と 夕焼けぬ  湖南省長沙 」  とある句帳が遺っていました。1945(昭和20)年ホトトギスに載った句です。

竹下さんの所属部隊は、揚子江を遡り中国軍の拠点を潰す作戦についていました。戦況が悪化し機能しなくなった兵站、空襲から隠れながらの戦闘と警備、黄砂の中での行軍・・・訓練も十分でない中、飢えと病気で死んでいく仲間の兵士たち・・・。竹下さんは怪我をした上官に付き添って部隊を離れ生き延びました。「だから戦友というもんは一人もいなかった」と妻の俊子さん。

戦後、竹下陶子を囲む句会に参加していた弟子の皿海達哉さん。晩年の竹下さんの送り迎えをしていました。「ゲリラ戦みたいに現地の人と打ち合った。怪我した人を船で運んだりする」という話などを聞いていました。陶子の句を掲載した戦時中のホトトギスを手にした皿海さん。その手は震えていました。「これすごいなあ。これみんな呼びかけているんです。読者に。ボルネオやスマトラや中支、あちこちから。呼びかけて、自分の存在が俳句になって表現できて、生きてるぞって。『存問』ね。挨拶。どうしてるって尋ねる。」

クリークを たつきの民に 梅咲きぬ  陶子 

戦場での一コマ。クリーク(水辺)で日々のたつき(暮らし)を送る民に、梅が美しく咲いている。

皿海さん、「俳句を命綱にして生き延びて来られたんだと思うのです。一兵卒として。終戦日としないと、敗戦日としたら句会でも怒られたんですね。敗戦としたら、生存した価値まで否定されるような気がされるのかもしれませんね。」

戦後、虚子は新しい考えを提唱しました。「存問」(安否を問うこと)。会話から生まれてくる俳句がいい。お互いに俳句を通して語り合えることを「存問」といいます。

陶子は戦後も戦争の句を詠み続けました。

つちふれる 塹壕にゐて 動かれず  92歳(つちふれる=大砂嵐で何も見えなくなっている状態)

敵前の 歩哨に立ちて 明易し    92歳

菊の香や 教育勅語に 育ちたる   93歳の句

戦後生まれのお弟子さんは教育勅語という言葉も初めて聞いたと言います。戦争を経験したもう一人のお弟子さんの「戦争に行くのが当たり前だと思っていた教育勅語って恐ろしい」という言葉に涙していました。

この国の 未知には触れず 春惜しむ

「昔がなかったかのように知らん顔するんじゃないよ、当たり前じゃないよ」という句だとお弟子さんたちの会話。

 

1944(昭和19)年4月ホトトギス巻頭を飾った句。送った場所は伏せられています。

動員の 夜はしづかに 牡丹雪

紙白く 書き遺すべき手 あたたむ   小いとど

書いたのは遺書でしょうか。平松小いとどは12歳で父と並んでホトトギスに句が掲載されていました。

野遊に つつじを掘って きたりけり 小いとど

春雨や 杉苗積める 〇〇舟  平松竈馬(いとど)

和歌山県新宮市。いとどの孫平松幸一さんが、その家を守っています。小いとどの句碑が庭の真ん中に残っています。

水仙黄 母に似しつま もたまほし  小いとど

戦死しても何も帰ってこなかった。紙切れひとつ。小いとど(平松一郎)は平松竃馬(義彦)さんの長男で、父の影響で10歳から俳句を始めました。京都帝国大学でも俳句会に入っています。法学部に進み、父の望み通り判事を目指していました。

あととりが はたちとなりぬ 家の春   竈馬(いとど)

昭和17年26歳で召集。陸軍少尉として中国北部の前線に赴きました。京大の仲間が先に巻頭を飾ったことを悔しがる文もあります。

秋風や 勝てよと 母の女文字   小いとど

「母の思いは『帰ってよ』だよね。言えないね」幸一さんと妻洋子さん。

雁帰り 臣が命は 明日知らず  小いとど  (臣=天皇につかえる自分のこと)

銀漢も 泣け我部下の 骨拾う  小いとど  (銀漢=銀河)

昭和19年6月、河南省の山岳戦で頭に敵弾を受け命を落とします。戦地でも離さなかったホトトギスは昭和18年の自分の句が載ったもの。昭和19年4月号亡くなる2ヶ月前に念願だった巻頭掲載を知らないままでした。長男を失った父の悲しみは尽きることはありません。

戦死報 また出して読む 端居かな   竈馬

戦後、嶋忠正さんの手記に、その最期の様子が描かれています。「意識を失った彼の肉体はそれでも敵と渡り合っているのか、肺腑をえぐるような悲痛な叫び声をあげ、それが山を渡り谷間に響き渡った。彼の遺体は赤茶けた道路脇の空地で荼毘にふした。」

熊野古道那智の瀧の奥山、妙法山、黄泉の国への入り口と言われている森の中に、竃馬91歳時の句碑がありました。

子に生きて 又孫に生き 杉を植う  竈馬

「子どもに厳しかったおじいちゃん、お国のため、と言ったんでしょうね。でも、僕は一回も怒られたことはなかった。何になれと言われたこともなかった。よほど戦争とは厳しかったんでしょうね。育て方を変えたんでしょうね。戦争のこともこいとどのことも全く一言も話しませんでした。言いたくないことがすごくきつくあったのでしょうね。なんで戦争するんだろうな、と思います。もっと違う道があるんじゃないだろうか。俳句って力がありますね。メッセージでしょうね。」(平松幸一さん)

 

東京九段しょうけい館。戦傷病者の資料を扱う国立の施設です。様々な病気で戻った人々は「再起奉公」という言葉の元に再びお国に尽くそういう標語の元に病院から傷寮(傷痍軍人の療養所)に移されました。1944(昭和19)年ホトトギスの紙面には傷寮からの投句が目立つようになります。

征く夫に せめて朝風呂  濃山吹   真琴

すぐにまた わかるゝ人と 青き踏む  秋歩

どちらも宮城傷寮から送られた句です。山形駅前通りの丸山写真館で大正7年に生まれた丸山真琴さん。甥の孜さんが、ホトトギスに投句していた叔父のことを知っていました。真琴は、孜さんの父に続いて陸軍に入隊後、結核を患い、宮城傷寮に入寮しました。宮城傷寮には文芸部がありました。その雑誌の投稿規程として「悲痛深刻に流れぬこと」とあります。戦後、真琴は療養所の看護師と結婚、娘の邦子さんが生まれます。邦子さんが子どもの頃に父真琴は亡くなったそうで、彼女は父が傷寮にいたことは全く知りませんでしたが写真が残っていました。療養所の着物を着た6人の仲間達の写真が残っています。その中にホトトギスに投句、真琴と並んで掲載されていた田中秋歩さんもいました。真琴と秋歩、二人の句は、どちらも夫を戦争に送る妻の心を表したものに思えます。「いかないで、と言えない。完治すればまた送り出さなければならない。辛い時代ですね」と邦子さん。

東京九段のしょうけい館学芸員の木龍克己さんは語ります「義手や義足をつけた人が、軍事訓練をやっています。戦争そのものが非常識なものです。」

囲む輪は みんな傷兵 踊る輪も  (徳島傷寮)

退所せば すぐに防人 秋の風  (京都傷寮)

 

 

1942(昭和17)年軍艦の上からホトトギスに投句していた若者がいました。小いとどの京大俳句会の同期でした。先に巻頭を飾り小いとどを悔しがらせたのです。

敵艦あはれ 銀河の空へ もゆる時  大三郎  (軍艦〇〇)

海軍軍医細身大三郎、高知県中村出身。戦後土佐清水に医院を開業しました。看板は外科、なんでもできたという大三郎に可愛がられた西村光一郎さんが探し出してくれた遺品のアルバム。そこにあった戦時中の風景は故郷中村のものでした。

世をおほふ 戦の中へ 卒業す   大三郎

1941(昭和16)年京大医学部を卒業した大三郎は巡洋艦青葉に医務員として乗船。グアム島に向かう海の上で、日本の真珠湾攻撃を知りました。

驟雨さり にわかに近し 敵の島   大三郎 (〇〇)

1942(昭和17)年作戦失敗後青葉とともに帰還した大三郎を待っていたのは「臆病だ」という轟々の批判と母の死でした。自筆の短冊が遺っています。

常夏の うみは母なき 子にあをし  大三郎

一か月の内地滞在の後、大三郎の乗った空母青葉は、ガダルカナル島に向かいました。連合軍が飛行場を制圧した中、孤立した日本軍は死闘を繰り広げていました。この海戦で同じ戦隊の船はことごとく撃沈、青葉も被弾し100人以上の仲間を海に葬りました。

友ら死なせ 母港の秋の 灯に還る  大三郎  (呉海病)

東京に住む、大三郎の孫市原美香さん。母南美さんから祖父のことを聞いていたといいます。「軍艦に乗って、毎日スコールの後にかかっているすっごい大きな虹が綺麗なんだよね」と。南美さんが昭和19年春に生まれた記念写真の横に大三郎は「友ら死なせ 母港の秋の 日に還る」を手書きしていました。「大三郎の乗った船はお医者さまの乗った船という目印があったから安全だったと聞いています」と語った美香さんが初めて読むホトトギス。大三郎の「今度こそはと思いつつなぜか今も永らえております」との投稿に「安全だと母にはいっていたけれど、そうじゃなかったんですね。」

スコールの 響きにひたり いのちあり  大三郎

美香さんはホトトギスに載る俳句を読んで「初めて過酷さを知りました」と涙します。娘の誕生後三度目の戦場へ。1944(昭和19)年夏特務艦神威(かもい)に乗り込みます。日本海軍は主な戦力を失い、航空援護もない無謀な戦いでした。「7月17日頭髪を切って送る。・・・9月23日空襲60機あまり周囲の船はほとんど沈没。27日ついに全艦大火災、死傷101名となる。10月28日門司へ門司へ。」満身創痍の神威は門司にたどり着きました。

昭和21年元旦の句  霙降る 今日は巷の 医師(くすし)われ

投句をあらそった小いとどはもう居ません。 熱燗や いくさせし身の 汝(なれ)と我

人生の最後には穏やかな海を詠みました。  音もなき 銀河と遠き 漁火(いさりび)と

戦後の大三郎を知る西村光一郎さん。「みんな死んだのに自分だけ帰ってこれた。簡単に立ち直れるものではないと思います。『敵艦あはれ 銀河の空へ 燃ゆるとき』優しい人です。やらにゃならん、反戦叫んでも意味がないこともわかっている、その中で、必然でしょうね。歌が遺言でしょうかね。俳句がなかったらもっと早く死んでいたと思います。遺言よりまだ強い、書かなきゃならんというのがあるんでしょうねえ。」

 

一人一人の17文字の遺言。語れなかった心を伝えています。ここに紹介できませんが多くの秀句が番組の最後を飾りました。そして雑誌「ホトトギス」にはさらに膨大な数の句が残っています。その一句一句がその時々の一人一人の心を表しており、一人一人の物語を内包しています。地道にその物語を掘り起こしたスタッフの努力に脱帽します。そして柄本佑さんの朗読、高橋美鈴アナウンサーの語りは淡々としかし深々とその物語の奥行きを伝えてくれました。様々なシーンの映像を重ね合わせ、平和への願いが強く込められた番組でした。俳句の力、「存問」の意味を強く感じた番組でもありました。https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/L3K18V6PWG/

 

2021・8・28(日)

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たつこ
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今でも手元にある「長くつ下のピッピ」「やかまし村のこどもたち」が読書体験の原点。「ギャ〜!」と叫ぶほかない失敗をたび重ねていまに至ります。

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