日本を学ぶ

新ドキュメント 太平洋戦争第一回〜後編〜

太平洋戦争開戦までの道のりを、エゴドキュメント=戦時下の日常や心情を描いた個人の記録、から、探る番組の、第一回「開戦」・前編「銃後もう一つの戦争」は昨日放映されました。わたしは残念ながら見落としましたが、母が観て「ぜひあなたがたに観て欲しい」とメールを送ってきました。珍しいことです。

開戦時小学校1年生だった母は「少国民」として戦争に疑いを持っていませんでした。母の父(祖父)は陸軍にいましたが戦争拡大に反対して、東京から北満に左遷されました。それが戦争が始まる9ヶ月前だったことがこの番組を見てわかったそうです。(「このままでは日本はダメだ」という父の言葉に少国民の娘は「何を言ってるの」と思っていた、という話はよく聞かされていました。)

前編の再放送を待ちます。

https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=31839

今日はその後編、見逃すわけにはいきません。「後編は、運命の日となった12月8日とその結末を、国の指導者・兵士・市民それぞれのエゴ・ドキュメントから立体的に描く」と番組紹介にあります。日本だけで310万もの命を奪った太平洋戦争、なぜ戦争は始まり、続いたのか?

1941年12月密かにハワイに向かっていた日本海軍の航空機の搭乗員の殆どは20代の若者でした。21歳の広島出身、後藤元さんの日記から〜「決せよ覚悟を〜今からはいよいよただ頼りとなるもの、それはただ自分だけである。〜ふる里の老いた母にも亡き父の御霊にも決別を告げた〜日本の将来は我々の双肩にかかるのだ。〜必ず戦いに勝つのだ。」

「自存自衛」のための戦争、と戦争を始める理由を天皇は告げました。日中戦争が4年にも長引き、中国を支えるアメリカは日本への輸出を止めました。石油不足を補うため日本は東南アジア制圧を狙い(自存自衛)、まずハワイ真珠湾を攻撃する事で東南アジアへのアメリカ軍の進出を止めるという狙いで、12月8日、日本はハワイ真珠湾を攻撃することとなりました。

空母から発進した133機、リーダーの無線がキャッチしたジャズはホノルルへの道しるべとなり、飛行機は雲の中を密かにハワイに向かいました。ハワイではアメリカ軍は日本軍の編隊をレーダーが観測したが日本軍だとは思わず、日本軍の奇襲に気づくチャンスを逃したのです。エゴドキュメントを元に作成したCGが画面に映し出され、一人一人の経験者の言葉が語られていきます。

「トラトラトラ(われ奇襲に成功セリ)」という暗号が広島に届きます。アメリカ軍の戦艦アリゾナは1000人を超す乗組員とともに沈没。今なお石油を海に流し続けています。

真珠湾ではアメリカの猛反撃が始まります。アメリカの死者2400人。しかしアメリカの指導者たちはあわてませんでした。遅かれ早かれ第二次世界大戦に参戦する、世論の反対でできてこなかったことが、日本の奇襲により世論の潮目が変わり、できるようになったのです。

一方日本では、大国アメリカ相手の勝利に国中が歓喜。「血湧き肉踊る思い」と「わが海軍の強さ驚くほど」「心臓が破れそうな興奮」「この時に生まれ合わせたことはとても幸福なこと」「戦勝を真心込めてお祈りした」・・・繰り返し華々しい戦果が報じられました。しかし命を落とした人のことは伝えられませんでした。潜水艦部隊や航空隊の犠牲者たち・・・先に紹介した後藤元さんも21歳の生涯を閉じました。「母上様さよなら」としたためられた日記が一か月後遺族に届けられ、彼は村の英雄とされ戦意高揚のシンボルとなりました。

「大東亜共栄圏」という言葉がこの頃急に使われ始めます。この戦争によりアジアの資源地帯をおさえるべきだという考え方が「大東亜共和圏」という言葉を作り出し、戦争を拡大していきます。戦争は「自存自衛」の範囲内に留めておくべきだという考え方の持ち主である石井秋穂陸軍大尉は、「最低限の戦争目的を規定しておかなければ和平が守られない」と日記に記します。

天皇の詔では「自存自衛」のみが戦争の目的となっているが、初戦の勝利をうけての東條英機首相の演説では、新たに「大東亜共栄圏」の構想が戦争目的となっていました。このことに、石井秋穂陸軍大尉は危機感を覚えます。「真に活きんがための戦争には大言壮語は禁物である。少なくとも国内的には自存自衛を最初から深刻に解説する必要があった」・・・戦争の目的を変質させたことで、早期和平の糸口が逃げていったのです。

東南アジアを侵攻しシンガポールを攻略する作戦に参加した兵士たちの日記より〜「マレーのジャングルは泥沼を想像するべきである。山ヒルと赤蟻とブヨの大群に神経衰弱になる」「食い物を探しながら戦争せなならん。着のみ着のままで」〜戦争を継続して行く上で不可欠な食料の補給がままならないまま戦争が拡大したのです。

日本国内でも戦前から食料不足が続いていました。「物資の供給をする余力が日本にはない、だから搾取的方針によらざるを得ない。」と大蔵大臣は言い、それをうけて石井秋穂は、占領軍の現地自活のために搾取を認める方針を立てました。が、実際に現地を視察して軍記の乱れている現実に、「皇軍の掠奪強姦を嘆す」「これが大東亜戦争の性格を雄弁に語るものであった」と記します。

しかし日本では2月15日「シンガポール敵前上陸」の報に沸き立ちます。「なんという私たちは幸せな国に生まれたのだろう」「万歳を三唱し乾杯する」「2合の祝い酒特配される」

三好正顕さんはシンガポール手前の戦場で重傷をおいました。「自分の隣にいた兵士もお母さんお母さんと唸っていたが夜半頃は動かなくなった。どうやら死亡したようであった」「たか子さん(日本に残した婚約者)、わたしがもしやられたら全て解消してください。わたしより立派な人に嫁いでください。〜たか子さんの幸福を祈っています」と日記に残しています。

日本軍が占領したシンガポールで、「華僑に対しては相当注意が必要、不逞分子を虐殺して殺してもいい」と命令が下ります。憲兵分隊長だった大西覚さんは語ります「これはえらいこっちゃ。・・・確証ないまますぐに虐殺せよというのは・・・人道に反するし嫌だった。でも命令なら仕方がない。」戦後この虐殺に関わった人5人が終身刑、2人が死刑となりました。シンガポールでの虐殺は数万規模にのぼるとも言われてます。

部下を失い、瀕死の重傷をおった三好正顕は「戦争とはなんの恨みもないもの同士がただ憎しみあい殺し合いをしていることが、ほかに例えようもない無残で無意味なことであると思われる。米英との戦争はまだ始まったばかりではあるが、なんとか早期に平和がおとづれないものであろうか。」と記します。80年後、三好の妻たか子さんは南方を転戦した婚約者に会えた時のことを「びっくりした。お互いに嬉しかったからなんもわんかった」と語り、取材の一月後この世を去りました。

戦場での死は美化され、実態は覆い隠され、指導者たちは勝利に幻惑され、銃後の熱狂も加速していきました。番組は、戦争へと邁進して行く様子をさらに描いていくとのことです。

また、太平洋戦争80年特集として、「歴史探偵〜写真で迫る真珠湾攻撃のリアル・若者たちは何を感じたのか?」「日本人はなぜ戦争へとむかったのか」「80年前にSNSがあったら」「ドラマ倫敦の山本五十六」などなど、が放映されます。

ねるひるはオリジナル作品「オレンジの家」をアップしました。戦争によって家を失う悲劇を歌ったものです。すがやゆうこさんの美しい絵とともに流れます。どうぞご視聴ください。

https://www.youtube.com/watch?v=w-WZhJmSEqA

2021・12・5(日)

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英語学習・音楽制作・WEBデザイン・体質改善など、色んな『まなび』と『教育』をテーマにnelle*hirbel(通称ねるひる)を中心に学びクリエーターチームで情報を発信しています。 YouTubeチャンネルでは、音楽×英語の動画コンテンツと英語レッスンを生配信しています。

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