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吹田市博物館春季特別展 垂水遺跡群(弥生時代後期〜古墳時代)1

4月27日(土)より吹田市立博物館で春季特別展「繁栄した湾口の湊津ー垂水遺跡群からよみとくー」が始まりました。

展示解説をしていただけるというので、27日1時からのオープニングイベントに参加しました。竹原千佳誉学芸員の丁寧な解説付きの贅沢な時間でした。

まず、展示室に入ってすぐ左手の地図に見入り、驚きました。大きな河内湖が上町台地の奥に広がる様子、、、は、これまでにも見たことはあるのですが、垂水遺跡、垂水南遺跡、五反島遺跡の場所が明記されたものは初めて。弥生時代中期、約2100年前の吹田がリアルに感じられました。

現在標高55メートルの場所にある垂水遺跡のイメージ模型。

垂水遺跡には、弥生時代前期から人が住み始め、弥生時代中期から後期にかけて最も栄え、古墳時代前期まで継続したと考えられています。この時期の一般集落とは違って、大阪湾に面する波止場である、五反島を見下ろし、水陸の交易ルートを監視する役割も果たした証拠に、投弾や「のろし」跡の焼土坑が見つかっています。

隣接する垂水西遺跡を含む、垂水遺跡群からは、外来系の土器や、四国産の水銀朱の流通や生産跡、青銅器や鉄生産の先端技術の存在も確認され、ここに先端技術を持った集団が暮らしていたことが明らかになりました。

そしてさらに山側(標高77メートル)にあった垂水西原古墳からは竪穴室石室と考えられる赤く塗られて石棺が発掘され、大阪府柏原市芝山産の石材が使われていることが判明しました。この石材は奈良県にある箸墓古墳(3世紀後半、卑弥呼の墓ではないかという説もある)に使われているものと同じです。被葬者については垂水地域の統率者としかわからない、この垂水西原古墳、どんな人が葬られているのだろう?ワクワクしますね。

波止場五反田は水運、陸運の拠点として、垂水遺跡や垂水西遺跡にあった集落が衰えたのちも長く栄えたと考えられています。五反田遺跡からは、平安時代の境界祭祀の跡や、室町時代までの遺物が継続的に出土しているのです。

三つの遺跡の出土遺物を中心に、当時の吹田の様子が紹介されていてとても興味深かったです。これらの遺跡の、西に蔵人遺跡、榎坂遺跡、東に北泉遺跡があり、これらの遺跡とのつながりが注目されています。

また古墳時代中頃(4世紀末から5世紀初頭)に朝鮮半島から伝わった窯業技術で須恵器の生産が始まりました。吹田ではその初現期に、須恵器窯が五反田遺跡から糸田川を北東に遡上した千里丘丘陵に営まれました。特徴から渡来人が直接関わったものと考えられています。また出土した須恵器の紋様は朝鮮半島の陶質土器の系譜であり、最古相のものとなるそうです。今回の展示の題の部分の飾り模様はここから採ったそうです。

千里丘、桜井谷・・・自分に縁のある土地がそのような歴史を持ってつながっていることはなんだか嬉しくて、その時に生きた人々のことを想像するとさらにワクワクします。

このような説明を受けながら展示をたっぷり楽しんだあと、次のお楽しみは、寺沢知子先生の講演会です。「4世紀の倭国事情ー政権交替と交易の盛衰」

オープニングも講演会も予想に反して(私だけじゃなく博物館の方もそう言って貼りました)とても多くの人が集まっていて、講演会では座れない人もたくさんいました。寺沢先生の熱い講演については次に。

2024年4月27日

2100年ごろから約400年後になると河内湖も随分変化しているようです。そして仁徳天皇(と記録されている人)が、今の新大阪にあたる場所で大阪全体を見渡し、茨田の堤などの大工事を行なって大阪平野が形作られていくのです。

吹田市立博物館のHPはこちらです。

https://www.city.suita.osaka.jp/museum/jyosetsu/1031002/1031003.html

 

 

 

 

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たつこ
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今でも手元にある「長くつ下のピッピ」「やかまし村のこどもたち」が読書体験の原点。「ギャ〜!」と叫ぶほかない失敗をたび重ねていまに至ります。

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