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4世紀の倭国事情〜政権交替と交易の盛衰 吹田市立博物館春季特別展2 

この特別展のオープニングには吹田市長などの来賓が招かれ、スピーチを行いました。後藤吹田市長の「この展覧を、学芸員さんの説明を聞かせてもらって観る前と、観た後で、考え方が180度変わりました」という言葉が印象に残りました。吹田市博物館については存続が危ぶまれている、という話を聞いていて、「この吹田の誇りと言える場所を潰すなんてあり得ない」と私は一人憤っていました。

市長の言葉から博物館存続の光明を見出したのは私だけではないと思います。1992年にオープン後、吹田地域文化に関する歴史資料を調査研究し、次世代に継承するべく頑張っておられるスタッフにエールを送りたいです。

竹原学芸員の丁寧な説明を聞きながら展覧をみた後の、今日のお楽しみは、竹原学芸員の恩師であるという寺沢知子神戸女子大学名誉教授の講演会「4世紀の倭国事情」です。

先日、NHKスペシャル「古代史ミステリー」で、「空白の4世紀に迫る」と銘打ち、「第一集邪馬台国の謎に迫る」「第二集ヤマト王権と倭の五王」が放映されました。番組を観ただけでは結局4世紀に何があったのかははっきりとわからなかったので、この講演で何かわかればいいなと思い参加しました。

寺沢先生、のっけから、NHKの番組に触れ、「NHKは、まだ謎の4世紀、空白の4世紀と言っているけれど、4世紀は謎でも空白でもありません。あの番組は結局3世紀と5世紀のことを描いていて、4世紀の謎に迫っていません」と鋭く断罪、では4世紀に何があったのか?を論じていきます。

316年に西晋が滅亡し、倭国に関する記録が途絶えます。この時代の倭国について書かれた歴史遺物は二点。石上神宮(いそのかみじんぐう)七枝刀(しちしとう)と高句麗の広開土王碑です。

注) 奈良県天理市にある石上神宮七枝刀に、369年に「百済王の世子(後継者である皇子)が倭王旨のためにこの優れた刀を贈る」という内容が銘記されています。この頃百済は高句麗軍の侵入に苦しんでおり、倭王と同盟を組んだのではないか?そのために贈られたのではないか?という説が有力です。高句麗軍はまさに396年から大規模な南下を開始し、百済は(倭国の助けを得て)一旦撃破したとも伝えられます。

また、414年に建てられた広開土王碑には、高句麗によるこの頃の記録が刻まれています。それによると、「396年の高句麗の百済への南下は成功したが、399年百済が倭と和通したので、王は百済を討つため平壌にむかった。そのとき新羅が『多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下にした。救援を願いたい』と願い出たので、400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、それを追って任那・加羅に迫ったが逆を突かれて新羅の王都を占領された。404年には帯方で倭国を大敗させた」という内容が刻まれています。

先生は、文字記録に頼る歴史学的な視点からでなく、考古学的な視点から見てこの時代を読み解くことができる、とおっしゃいます。

つまり、この時代の古墳から被葬者の政治的履歴が可視化されるというのです。古墳は被葬者の生前、盟主の座に着いた時に築城が開始され、それは首長の力の可視化であり、この時代に多く作られた前方後円墳は「ヤマト王権」の傘下にいるということを表しているのです。

西晋が滅亡した316年ごろの倭国(オオヤマト政権)は「箸墓古墳」をはじめ前方後円墳を大和東南部に築き、中国系の三角縁神獣鏡などの中国系の威信財(中国の威信をバックにした規範)を配ることで周辺の首長達との連携を深めていました。それが、316年の西晋滅亡後は韓半島との直接交易が中心となり、4世紀前葉から中葉の韓国大成古墳群へは倭系遺物が、つまり倭系威信財が副葬品として出土しているというのです。官加耶の墳墓からも倭系威信財が出土していますが、これは4世紀後葉にはほぼ終了しています(上記の倭国大敗の記録と合致します)。そして日本国内各地からも倭系威信財が多く出土しています。

また、3世紀末から4世紀初頭のオオヤマト政権主導のプロジェクトとして、博多湾中心の交易が行われ、瀬戸内から河内湖南岸へ、旧大和川を遡上して大和東南部(桜井市)へと運ばれ、その中心に纏向遺跡の存在を見出します。このプロジェクトは東アジアの政治情勢の変化(316年の西晋滅亡)により終焉を迎え、纏向遺跡は衰退していきます。その後、日本海域(山陰)交易ルートが活発になり、寺沢先生の言葉では「弛緩期」の首長がその威信財を日本各地に配り、韓半島にも進出することとなるのです。が、上記した通り、この威信財分布は4世紀後葉にはほぼ終了しているのです。

寺沢先生は、このように威信財の分布から、4世紀後半には「弛緩機」の政権が衰退したことを読み解いていきます。そして後に書かれた『記紀(古事記・日本書紀)』伝承への考古学アプローチを行い、「ヤマトタケル」は「治天下」大王としての系譜を有しており、しかし、『記紀』伝承を受け継ぐ政権によって景行天皇(実在しないだろう)の皇子に落としこまれたという説を採ります。

つまり4世紀中頃の政権はヤマトタケル系譜の政権であったというのです。

先日、4世紀後半に築造された日本最大の円墳、富雄丸山古墳で大きな発見があり、大きなニュースとなりました。古代東アジア最大の鉄剣である蛇行剣、類例のない鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡、などが見つかったのです。

https://www.city.nara.lg.jp/site/press-release/165641.html

円墳であるということから前方後円墳系=主流ではない、つまり、政権内の強い反主流派勢力がこの富雄丸山古墳の主である、それは「神武東征」の最強の敵対勢力「ナガスネヒコ」として描かれた人物である、と考察が深まります。4世紀後半以後(「弛緩期」)の円墳の分布は、ナガスネヒコの敗北後に討伐された勢力のものだと考えられるというのです。

「弛緩期」=ヤマトタケル大王政権が、収束し、新しい政権は大和北部佐紀陵山古墳(4世紀後半から5世紀、前方後円墳)の主である可能性が、墳形企画、新式和製鏡、埴輪などの広がりから考えられ、短い期間で、政権中枢の古墳・王陵区は古市百舌鳥古墳群(4世紀後半から5世紀、前方後円墳)へと移動していきます。

このような考察から、寺沢先生は、「4世紀は空白・謎ではない!」と断言するのです。政権交代とシンクロする交易事情を復元し、『記紀』伝承にアプローチすることで、まだまだ今後明らかになる可能性が深まるというのです。

熱演でした。時間が足りなくて、延長、難しい部分もたくさんありました(考古学に詳しい人ならば簡単にわかる言葉や遺跡名がわからないなど)が、これまでの自分の『記紀』伝承についての知識=「ヤマトタケル」が鎮魂の対象である、と重なる部分が多くあり、とても面白かったです。

たくさんの講演内容から大筋を、わからないなりに、まとめてみました。機会があれば寺沢先生のお話をもっと聞いて見たいです。記録されていないと「証拠」がない、というのではなく、さまざまな「モノ」(この講演では「威信財」)が歴史を物語るのだ、と確かに思います。

そして私の住む北摂の地でどのような歴史が繰り広げられていったのか、もっと知りたいと思います。吹田市博物館のこれからの研究にも大注目です。

2024年4月27日

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たつこ
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今でも手元にある「長くつ下のピッピ」「やかまし村のこどもたち」が読書体験の原点。「ギャ〜!」と叫ぶほかない失敗をたび重ねていまに至ります。

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