今、ラジオ古典購読(土曜午後5時〜45分)「名場面でつづる『源氏物語』」(島内景二)を楽しく聴いています。長らく「源氏物語」を受容するときのベースとなってきた北村季吟の『湖月抄』の解釈と、それに対する本居宣長の反論などを交えて、『源氏物語』の名場面を読み解いていきます。
そんな話をしていると、友人が、島内景二さんの『源氏物語ものがたり』(新潮新書284)を勧めてくれました。
https://www.shinchosha.co.jp/book/610284/
これがなんとも面白い!!
生没年も本名も不明の「覆面作家」である紫式部の書いた『源氏物語』が同時代の人々に広く強く受け入れられたということは、『紫式部日記』(1008〜1010)や『更級日記』(1020〜1059)などの記述に明らかです。その後、この物語が散逸を免れ、21世紀の私たちにまで伝えられ、国を超えて人々の心を揺るがす力を持つことができたのは何故?島内さんは「源氏物語」に魅せられた9人の男たちの業績を明らかにし、その秘密を解いていきます。
源氏物語誕生の約100年後、平安末期、藤原俊成(1114〜1201)は「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」と語り、歌人たちに源氏物語を読むようにすすめました。そしてその息子、藤原定家(1162〜1241)は、書写されるたびに誤写が繰り返されていた本文を、校訂し、やまとことばの美しい文章で確定しました(『青表紙』)。
さらに南北朝から室町時代前期、順徳院(定家と同時代、承久の乱により佐渡に流刑)の曾孫である四辻善成(1326〜1402)は、すでに古語となっていた源氏物語のそれまでの注釈をまとめ、些細なことも漏らさず集めて、物語と史実とを重ね合わせ、モデルを突き止めました(『河海抄』『珊瑚抄』)。
政権が不安定だった室町時代応仁の乱のころ、「500年に一人の天才」関白一条兼良(1402〜1481)は「我が国の至宝」源氏物語を、一つの語釈で読むのではなく、文脈でによって変化させて読み、その世界の深さ豊かさを再発見しました(『花鳥余情』『源語秘訣』)。
戦乱の時代に平和を願った宗祇(1421〜1502)は、源氏物語に「和(愛)」の精神を読み取り、「古今伝授」という形(家元制)で次代に繋げようとしました。しかしこれは源氏物語を次第に権威化していくこととなりました。
宗祇の弟子大納言三条西実隆(1455〜1537)は、宗祇の解釈を発展させ、その子内大臣公条(1487〜1576)が引き継ぐ形で源氏学の基礎となる『細流抄』を完成させました。
乱世の終わりを生きた細川幽斎(1534〜1610)は古典研究の中に誹諧的要素(ユーモア)を取り入れ、源氏物語の描く理想の政道を行おうとしました。武人として忙しい彼は、弟子の中院通勝に三条西家の源氏物語の注釈書類を書き写させました。
江戸時代、北村季吟(1624〜1705)は、一般に公開されることのない「古今伝授」による源氏受容を一気に大衆化しました。彼は、読者のためになる本を目指し、本文+傍注+頭注という「本文付きの注釈書」である『湖月抄』は、さまざまな解釈を並べてあるだけのこれまでの注釈書とは違い、有力な説をわかりやすく配置し、画期的なものとなりました。
「もののあはれ」を発見した本居宣長(1730〜1801)は、『源氏物語』を倫理・道徳・政道に照らし合わせ、人生教訓の本としていた『湖月抄』までの読み方を批判しました。
イギリスの東洋学者アーサー・ウェィリー(1889〜1966)は『源氏物語』を英訳し、世界に紹介しました。世界中の人々から愛されることとなった『源氏物語』の魅力は、日本に逆輸入されることとなりました。
『源氏物語』に魅入られた9人の背後には、膨大な数の源氏を愛する人々が存在します。島内景二さんもその一人なのだな、と思います。島内さんのわかりやすい語り口で日本の国の源氏物語の受容史の一面を知ることができました。
2024年5月 旧暦の端午の節句は今年は6月10日、それまで、鯉のぼりや兜飾を楽しみたいですね。