日本を学ぶ

廬山寺・石崎光瑤展・陽明文庫の名宝展

ようやく彼岸花が咲き始めている御所を抜け、京都府立文化芸術会館へ、友人の絵画展に行きました。近所の小学校で集まって描いておられる作品の数々、素敵でした。友人の絵はどんどん進化しており、今回も素晴らしかったです。鴨川沿いの桜並木の絵は持って帰りたかった(笑)。

帰り道、梨木神社へ。参道にはマンションが建っており、鳥居から鳥居へまっすぐ行けないややこしいことになっています。中に入るとすっかり秋の気配。萩、藤袴が美しく咲いていました。

梨木神社のほぼ向かいに廬山寺があります。紫式部の住んでいた屋敷のあった所です。「光る君へ」で映像化されているので、イメージがわきます。まひろちゃんが、飛び出してきそうな、乙丸さんが慌てて追いかけてきそうな、いとさんの「姫様!」という声が聞こえてきそうな気がします。ありがたいことです。

それから、京都文化博物館へ行きました。目的は二つ。石崎光瑤展と陽明文庫の明宝14です。

冒頭に挙げた友人から、「とても良かった」と聞いて来てみた「石崎光瑤展」、本当にとても良かったです。名前すら知らなかった(まあそれは珍しくないのですが)画家です。

石崎光瑤は、1884年富山県砺波郡福光町に生まれました。父は実業家で文人、画才のあった彼のために京都へ引っ越しました。光瑤19歳の時でした。光瑤は竹内栖鳳の弟子となります。(虫類写生 明治29〜36・1896〜1903年 12歳から19歳)のスケッチの緻密さにまず度肝を抜かれました。

22歳の頃から登山を始め、草花や山を写生したり写真を撮っていました。1909年には民間パーティとしては初めての剱岳登頂に成功し、またのちにヒマラヤにも登など、登山家としても活躍します。(立山写生)山の絵には彼の山に対する愛情が強く感じられて心惹かれました。

30歳で文展で『筧』を出展、褒状を受賞しました。美しい絵です。

1916年、32歳でインドへ向かい、帰国後の『熱国妍春(ねっこくけんしゅん)』『燦雨(さんう)』は文展・帝展で連続特選となり、注目を集めました。花鳥が織りなす絢爛豪華な世界は光瑤の代名詞となりました。

また、早くから伊藤若冲に関心を持ち、西福寺の若冲襖絵を発見、模写するなど、その研究は若冲再評価へ繋がりました。

光瑤の故郷にある南砺市立福光美術館(富山県)のコレクションを中心に、光瑤の画業の全貌を初めて明らかにした回顧展です。確かな画力に裏打ちされた、大胆な色使い、デザイン性豊かな構図、やはり若い頃の作品に私は惹かれました。

一見の価値大いにあり。

https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/20240914-1110/

文化博物館では、さらに、池大雅美術館から寄贈された作品を展示した「池大雅 山水颯爽」展と、「陽明文庫(近衛家の御蔵を継承したきかん)の名宝14」展を、観ることができました。

https://www.bunpaku.or.jp/exhi_sogo_post/20240928-1124-2/

https://www.bunpaku.or.jp/exhi_sogo_post/20240928-1124/

特に、今「光る君へ」で注目を集めている、藤原道長の日記、国宝『御堂関白記』は、彼の直筆のものであり、当時の政治や文化を今に伝えるものとして、大注目でした。決してうまいとは言えない(と聞いている)道長の直筆が、目前にありました。「この紙に、道長が筆を持ってこの文字を書いたのだ」と思うと、鳥肌の立つ思いでした。「光る君へ」のおかげでビジュアルが鮮明に浮かぶからだと思います。

陽明文庫は、平安時代以来の歴史資料の一大宝庫、今回は14回目の展示、どの展示物も迫力があり素晴らしかったです。

友達の絵、そのグループの皆さんの絵、そして石崎光瑤、池大雅、陽明文庫、と見どころたっぷりで、よく歩き、充実した1日でした。最後は「串焼ぞろんぱ」で締め、美味でした。

2024年9月29日(日)

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たつこ
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今でも手元にある「長くつ下のピッピ」「やかまし村のこどもたち」が読書体験の原点。「ギャ〜!」と叫ぶほかない失敗をたび重ねていまに至ります。

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