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奄美へ行ってきた④名瀬の神々巡りまち歩き

奄美の自然も満喫しつつ、奄美の歴史を知りたいという思いで、名瀬市の観光案内所で行なっているガイドツアー「神々巡りまち歩き」に申し込みました。案内人は鹿児島から移住されたというつねよしさん。暑い暑い中のまち歩きとなりました。

その前に地元のスーパーでこんなものを見つけて飲みました。炊いた米に薩摩芋をすりおろして乳酸発酵させた「ミキ」。甘くて一人ではとても飲みきることはできません。

ツアーが始まるとすぐにスーパーへ。あれあれ、と思っていると「ミキ」の紹介から始まりました。そして近海物の魚・花良治みかん・島バナナなどなど。

1948年創業の原ハブ屋さんは、ハブの皮や骨を使った様々なものが売っているちょっと怪しい感じのお店・・・ハブに会った話をしたら「それは珍しい体験です」と。友人はブローチ、私は指輪を購入。

奄美大島の中心地名瀬市は、移住者が多く、様々な風習が混じり合っているといいます。家の玄関に貝を飾っている家を時々見かけますが、それは奄美本来の魔よけの風習だそうです。

奄美に来てから「教会」の看板が多いなあ、と思っていたのですが、このツアーでそれが勘違いでないことがわかりました。奄美大島の歴史の中で、最も暗黒時代と言われているのが、薩摩藩に支配されていた時代です。

1609年、薩摩藩は奄美大島に軍事侵攻し支配します。はじめ米作を振興していた薩摩藩でしたが、1747年の「換糖上納令」(米を黒糖に換算して税として納める)を契機として、稲作からサトウキビ裁培への転換が進行しました。1830(文政13)年から「惣買入制」(生産した黒糖すべてを藩が買い入れする制度)が開始されるようになると、サトウキビ栽培のプランテーション化は、あっという間に奄美群島全域に進みました。奄美の人々は、生産したサトウキビは全て取り上げられ、米はない、飢えに苦しむという奴隷のような生活を送ることになったといいます。

明治維新を主導した薩摩藩の財政で奄美群島で生産された黒糖が果たした役割はとても大きなものがあったことは明白です。しかし、明治に入ってからも、奄美の人々の暮らしは基本的に変わらなかった・・・砂糖利権については、鹿児島の業者に搾取される、という形で薩摩藩時代と変わらない状態が続いたのです。

そのような状況に人々が甘んじているのは、260年に及ぶ薩摩藩支配の下の生活が当たり前になってしまい「奴隷根性」が染み付いてしまったせいだ、と考えた大島区裁判所の検事(名前が出てこないです)が、島の近代化を目指して、キリスト教の誘致を行い、それに応えたのがカトリックだったのです。生活苦にあえいでいた多くの島民は、琉球国由来のシャーマンであるノロやユタに対する経済的負担による不信感も持っていました。1609年に薩摩藩が導入した仏教は、支配層の武士のためのものであり、島民のものではありませんでした。

そのような奄美の人々が、生活苦からの解放や 医療・福祉・教育などの充実をすすめるキリスト教(カトリック)を受け入れたことは想像に難くありません。布教開始からおよそ 30 年後の 1923(大正 12)年には奄美大島全体で 4,000 名以上の住民がカトリックに入信しており、カトリックが数十年で地域社会に受容されていったのでした。

教会は島の主要な集落ごとに建てられ、カトリックは教会を拠点に布教活動を行うとともに、 医療や教育といった社会福祉活動を通じて地域社会に貢献しました。明治時代後半には日本人神父が子どものための無料の塾を開講していたり、また、名瀬町の 町会議員をはじめとする地元有力者から女子教育充実のための高等女学校開校の要請を受け、1924(大正 13) 年に大島高等女学校を開校したのでした。これは鹿児島県における女学校の第一号でした。

名瀬聖心教会です。1892年奄美最初の使徒フェリエ神父の胸像があります。美しい教会でした。

この祭壇は、ケネディー大統領の葬儀ミサが行われたことで有名なアメリカ・ワシントン大司教区・司教座聖堂聖マテオ教会から貰い受けたものです。貰い受ける約束をした後にケネディー大統領が暗殺され、葬儀後約束が守られ、奄美に送られたということです。

奄美のキリスト教に関するガイドさんの説明はここまで。その後どうなったのか気になったので調べてみました。

1988(昭和8)年ごろから、大島女学校の廃校運動や、カトリック排撃運動が、地域住民・地元メディア・地元有力者・宗教関係者・右翼団体・現役軍人によって行われ、カトリック信者たちはキリシタン禁制さながらの迫害を受け、信者のコミュニティは第二次世界大戦終了まで解体を余儀なくされたのでした。教会などの不動産は町村役場や集会所となり、排撃した側を利する形で転用されていました。第二次世界大戦終了後、1953(昭和23)年まで奄美大島は米軍の統治下にありました。そして修道士たちが島に戻り、返還された教会を拠点に迫害の下耐え忍んでいた信者たちと活動をはじめ、奄美大島の復興に貢献しました。

まち歩き一行は神社へと向かって行きます。明治2年に創建され、23年ごろ現在の場所に遷座されたそうです。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)=天照大神の孫で高千穂に降臨した神、応神天皇=4〜5世紀の王で大阪府堺市と羽曳野市に応神天皇陵と伝わる前方後円墳がある、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)=アマテラスの娘、宗像三女神の一柱、が祀られている比較的新しい神社です。

裏菊紋が使われています。格式は高いのでしょう。明治になって天皇中心の世の中の仕組みを奄美の人々にも伝えようとしたことが伺えます。高台にある境内からは名瀬のまちが一望でき、パワースポットととらえる人もいるようです。

次は、お墓へと足を進めます。お墓にも土地土地の特徴があります。沖縄風のお墓も見られます。また、戒名を書いた墓石が少ない。ここからも仏教が浸透していないことがわかります。さらに、お墓に刻まれた苗字をみると、一字のものがとても多いことに気付きます。

そう、奄美の人には一文字の苗字の人が多いのです。

元さん、伊さん、栄さん、恵さん、里さん、森さん、林さん、平さん、清さん、等々。その理由は、奄美が薩摩藩に支配されていた時代、苗字を名乗れるような身分だった島民は、奄美大島の出身者だとひと目でわかるよう、漢字一文字の苗字に改めることを強制したからだといいます。

1875年平民苗字必称義務令により、すべての国民が苗字を名乗るようになった時、多くの人が馴染みのある一字の苗字を選択したそうですが、元々の二字以上の苗字に戻した家もあったといいます。

ノロやユタ、仏教、神道、キリスト教などが入るずっと以前から、奄美大島の人々は山や海などの自然に神を見出していました。名瀬市のおがみ山は古くから信仰の対象となっていました。大きな木が繁り、心地よい木陰を作ってくれています。人が通っていないと少し不気味かも・・・奄美の人たちはそんな時にケンムンと会うことがよくあったといいます・・・ケンムンは不思議な妖怪で様々な伝承が残っているそうです。

名瀬のまちが一望できる高台に到着しました。三時間、よく歩きました。

奄美大島の奥深い歴史の一端に触れることができたツアーでした。当たり前のことですが、たくさんの人々の甚大な悲しみ喜びや努力の上に今の奄美があるということがしみじみと感じられました。観光案内所に戻るとケンムンのお人形が出迎えてくれました。

旅の楽しみのもう一つは美味しい食事ですよね。名瀬市の繁華街、屋仁川通りの「むちゃかな」(島唄に歌われた美女むちゃ加那からとった名前です。あまりの美しさに嫉妬されアサリ採りをしている最中に海に突き落とされて死んだという伝説が残っています。無茶かな?という意味ではない)、少し離れた石橋町の「あまみの魚たち」、どちらもとても美味しく楽しく食させていただきました。

ホテルまでの代行タクシーの若い運転手さんに、「奄美大島ってクリスチャンが多いんですってね」と聞くと、「奄美には教会が多いです。お寺は2つしかない、西本願寺と東本願寺」。「お葬式って何式が多いんですか?」と聞くと「それはお坊さんがお経あげてます」「お寺二つしかないのに間に合うんですか?」と聞くと「もう一人います、お葬式の時のお坊さん」。「子どもの頃、まわりにキリスト教の人いました?」と聞くと「いやあ、宗教のことなんか気にしてないすからね、わかんないな」。・・・・そりゃそうだよねと納得。

2022年10月11日(水)記 暑かったこのあいだが嘘のように今夜は冷えています。くしゃみ。今朝自転車を走らせていると、金木犀の香りが漂ってきて嬉しかったです。

 

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たつこ
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今でも手元にある「長くつ下のピッピ」「やかまし村のこどもたち」が読書体験の原点。「ギャ〜!」と叫ぶほかない失敗をたび重ねていまに至ります。

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