旅ブログ

奄美に行ってきた②田中一村

すっかり秋の気配に覆われた今日10月8日(日)の最高気温の予報は、20度です!今日は、ちょうど24節気の寒露に当たります。近所の池には渡り鳥がやってきました。まさしく「鴻雁来(こうがんきたる)」(24節気をさらに3つに分けた期間の72候で表した今日)です。

今、私がご縁をいただいている四條畷市の各地域では昨日から秋祭りが一斉に行われています。地車曳航も行われました。(地車曳行といえば岸和田や堺などが有名で、大阪の南の地域で行われているものと思いがちですが、実は、大阪・神戸=摂津国、河内国、和泉国、で広く行われています。)次の映像は2018年のものです。https://www.youtube.com/watch?v=uct6B3lith4

夏が遠のき、9月の旅行がすっかり過去のものになってしまいました・・・が、奄美の思い出を綴りたいと思います。飛行場に着いてレンタカーを借り、まず向かったのが、「田中一村記念美術館」です。https://artexhibition.jp/topics/features/20230328-AEJ1302555/

今回の旅の主目的の一つ、「田中一村を奄美で味わう」です。

空港から5分くらい、元々空港だった場所を整備して2001年にオープンした奄美パークと田中一村記念美術館。ドーム型の立派な建物にまずびっくり、これが奄美の里、隣接している一村記念美術館、この建物も素晴らしい、は40点の展示、ということで、軽い気持ちでお得な共通券を購入しました。が、見応えたっぷりで、一村だけで、予定時間を過ぎてしまいました。

やはり一村はすごい。9歳の時の写生が既に驚くほどの完成度。一作一作から放たれる強い力。一村の生涯を追う形で展示された充実の作品群、自ずと歩みが遅くなります。

1908(明治41)年栃木県に彫刻家の息子として生まれた一村は、早くから画才を表し、1925(大正15)年東京美術学校に入学するも2ヶ月で退学します。退学の理由はわかりません。大正15年度の全國美術家名鑑に「田中米邨 独学 十九歳」と紹介されています。日本画洋画を通じて10代で名鑑に名前があるのは米邨(のちの一村)一人だけです。援助を惜しまぬ理解者も少なくなかった中、しかし、彼は南画家として生きることを拒否します。1947(昭和22)年、青龍展に「白い花」を出品し、川端龍子から高く評価されますが、龍子と対立して青龍社を飛び出し、以後画壇と交渉を持つことはありませんでした。1958(昭和33)年49歳で奄美大島に移住し、69歳で亡くなるまで、奄美の自然を愛し描きました。

亡くなるまでの20年間の作品群はまさに圧巻、まさしく彼にしか描けない作品たち。

1980(昭和55)年、奄美大島名瀬市のダイバーの家に無造作に画鋲で止められた魚のデッサン画に眼を射られ、魅せられ、一村に深入りしたのが、NHKでディレクターをつとめる松元邦暉さんでした。

1984(昭和59)年12月16日、NHK日曜美術館『黒潮の画譜〜異端の画家田中一村』が放映されました。私は、この番組を番組を観て、一村の絵や生き方に、大きく心を動を動かされた多くの人々の中の一人です。画集を購入することは当時の私にとってはかなり特別なことでしたが、翌年発刊された『田中一村作品集』を、迷わずすぐに購入し、今に至るまで愛読しています。

以下、この本の小林忠さんの文章より抜粋。

「(一村は)誰よりもまして生真面目に周囲のものを見つめ続け、そしてそれらの現実の姿と印象とを正確に画面に定着させることに、文字通り障害を捧げ尽くした稀有の人であった。」 「画面に充填された動植物の精気の熱さに圧倒され、思わずたじろぐほどであったが、同時にまた意外なほどの静けさと安らぎの気分が支配することも感じて、不思議な思いに駆られたものである。これとよく似た鑑賞の体験は、西洋の画家ならアンリ・ルソー、日本の画家でいえば江戸時代中期の異色の花鳥画家伊藤若冲などからしばしば味わわされた思いがある。」「(若冲は)実際に自分の家の庭に鶏を飼って、日々その形状を観察し、羽の一々に至るまで写実の徹底を期した伝えるが、そうした逸話は田中一村の、軍鶏た、トラツグミや、魚の写生にまつわるエピソードと同じ質のものである。」

そうなんです、一村と若冲、似ているのです。徹底的に細かく書き込まれた、くっきりとした確かな描線、鮮やかな色使い・・・

2018(平成30)年、滋賀の佐川美術館での「生誕110年田中一村展」では150点以上の一村の作品に触れることができました。圧巻!でした。、もうすぐコロナ禍によって行動が制限されるとは思ってもおらず、すぐにでも奄美大島に行きたい!という気持ちで一杯になりました。それから5年、ようやく念願が叶い奄美大島で一村に出会うことができました。

そして特筆すべきはこの記念館の建物の美しさです。奄美大島の高倉をモチーフにしたデザインだそうです。外観も中の景色もとても美しいです。

https://www.axscom.jp/project/no02162/

長い時間をかけて楽しみました。それから駆け足で奄美パーク内を見学し、大島紬資料館(時間外でしたが見せてくださいました、ありがとうございます!)で、大島紬が作られる染めの工程から織りまでの全工程を、大島紬の歴史と共に学ぶことができました。そして向かいのホテル内にある大島紬美術館では、ガラス越しでなく、一村の作品に出会うことができました。https://www.oshima-tsumugi.com/

この美術館はなんと、大阪池田市に本拠地をおいておられて、担当の方は大阪と奄美をいったりきたりしているそうです。

後日、田中一村終焉の家を訪れました。

ひっそりと残る一村終焉の家。訪れる人の気配はありません。

一村は、1977年9月11日、パンツ一丁で倒れているところを発見されました。おそらく前日の夕方に心不全で亡くなったと推定されています。長年住んだ借家から「御殿のような」新しい家に引っ越したわずか10日後のこと、69歳でした。

「私はこの南の島で職工として朽ちることで満足なのです。私は紬絹染工として生活します。もし七十の齢を保って健康であったら、そのときは又絵をかきませうと思います」1960年終わりごろに書かれたこの手紙にあるように、彼は、紬工場で働いてお金を貯めては絵を描き、お金がなくなったらまた紬工場で働き、心血を注いで十数枚の絵を残しました。近所に住む魚屋さんで、魚をデッサンすることが度々だったといいます。また海辺で、山で、彼は歩き、たくさんの木々や鳥、動物たちと語らいました。「樹が話しかけてくるようだ」と語ったという一村の絵は、亡くなってから8年の後、大きな反響を呼ぶこととなりました。

 

写真が綺麗でないことお許しくださいm(._.)m。

2023・10月三連休   体育の日はやはり10月10日に限る!と思うのは私だけでしょうか?

ABOUT ME
たつこ
たつこ
今でも手元にある「長くつ下のピッピ」「やかまし村のこどもたち」が読書体験の原点。「ギャ〜!」と叫ぶほかない失敗をたび重ねていまに至ります。

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です