日本を学ぶ

ヤマサキマリラジオ7/磯田道史/ベッピ・キュッパーニ ②

後半、「よろしくおねがいします」というマリさんの挨拶から、よろしくお願いします、と言うことばはイタリア語にはない、「相手になんらかの好意を期待する。」と言う調和のことば、イタリア語にはない・・・イタリアと日本の精神性の違いを表している、というところに話が進んでいきました。話はものすごいテンポで進みます横に縦に彼方此方に、マリさんがイタリア語や日本語に訳している時間があるから、私はかろうじてついていくことができます。

磯田さんとマリさんはNHKの番組でよく共演しておられます。小説家の綿矢りささんがどうしても二人を会わせたいと、10年以上前セッティングしてくれ、とあるホテルの中のカフェで、俳優の堺雅人さんと磯田さんの2人とマリさんが出会った時、磯田さんは挨拶もなく、いきなり胸のポケットから「秀吉の風呂の古文書ですがどう思われますか。覗き穴が・・・」と話し始め、その後のマリさんの古代ローマの料理を食べる会に二人は参加し、萩尾望都さんや平野啓一郎さんたちと豚の乳房を食したとのことです。

ベッピさんの新著はイエズス会が書き残した資料を基に、史実は忠実に追いつつ、戦国時代を生きる空想上の人物、ベネチア共和国の商人(俗物)を主人公としてを配した小説です。日本人とは異なった視点で描かれた戦国時代です。

江戸時代の形ができる前の混乱の日本に興味があったと言うベッピさん。「読みたい本が出て来てくれた」と磯田さん。イエズス会レポートはとてもたくさんあり、ルイスフロイスのような言葉をよくわかっている人が書いたものが、印刷され、彼方此方の図書館で読める。細川ガラシャが死んだことがヨーロッパの街で見ることができる状態にあった、という、情報がコミュニティの中に隠される日本と、かの国との違いを、磯田さんはよく授業でも話していたといいます。

信長や秀吉の城など様々な事柄について、とても小さな細かいことまで記述がある。けれど、レポートを書いた人が興味を持ったものだけが描かれている。また、自分たちのトップの人たちに結果を報告するので全てうまくいっていますよ、という内容になっている問題点がある。そこに描かれていないこと(行間を埋める)を想像するのが僕の仕事、とベッピさん。その本の題名は「救い」です。

日本の戦国時代を描く文章は皆戦いを描いている。戦いは、生き残りたいため、救いのための手段だった、戦国時代の日本人が救われる方法として「神仏」「暴力」「アート」それぞれに向かっていく・・・それは、現代でも同じだと思う。小説「救い」の登場人物たちは自分たちを救う、生き残るためにどうすればいいか模索している。

古代から人は「神仏〜国〜金」で生き残ろうとしている。「アート」はどうかな。でも「芸術」は今はいらなくなって来ているように思う。国の権力が優勢順位の上になって、アートは必要なくなっているのが今と思う。歴史を辿ると何が必要かわかっている、でも昔あったメソッドが今生きていないように感じる必要とされていないように思う。

「今迷っている僕らには、迷いの中にいた中世が参考になると思う」「『新しい中世』と言う人がいる。理性で語っても『暴力』が迫ってくる怖さがある」と磯田さん。

「戦国時代、たくさん衝突し合いながらどれを選択するか考えないといけなかった、を、今こそ考えなければならないと思う」とベッピ。

ここで一曲、プッチーニ歌劇「お菊さん」蝉たちの歌。

今は「あれ書いちゃいけないあれ喋っちゃダメ」となっている。3色の鉛筆でなければ26色の鉛筆で描かれても困る。日本ではパンデミック(スペイン風邪)のことを記録に残しているのは与謝野晶子くらいしかいなくて抹消されてしまっていると磯田さんは言うけれど、ドイツの彼らが求めた救いは「国家主義」ヒットラーに行った、とマリさん。

理論的に考えるキャパシティを持たないまま人々がいることの怖さ。それは今も同じだろう。

磯田さん「永遠や続いて行くことに救いを求めるか、一瞬の中に救いを求めるか。お茶の救いはその瞬間を大事にすることだと僕は思う。そこにいた人々と心が溶け合っていい時間を過ごせたと言う瞬間を大事にすること」。

ベッピさん「戦国時代は永遠に求める救いと瞬間の救いが共生していた時代。或る日突然自分の求めていた救いが全く違うコンテンツを持っていると気づいたとき人はどうするか。戦国時代の茶の湯は、アバンギャルドなお茶、生き生きしていた。その時にイエズス会の人がちが堺、京都、九州にやって来た」「天正使節団が京都に戻って来た同じ日に千利休が秀吉から追放された。茶道とキリスト教の到着が同じ場所同じ人の前で発生していることに興味深く感じた」。

磯田さん「一説によると利休が逃げようとしていたから。お茶は時間と空間を飛び越えるという面がある。自由で解放を与えてくれる。利休は自由の解放を追求した結果外国のものも使っていた。茶室にわざと閉じこもるけれど、ヨーロッパのガラスだったり、古いものを使ったり、新しいものを組あせてたりしている。インナートリップ的な触発があればいいなと思えばいい」。

この本がイタリアで出版されたのは3〜4年前。珍しい本だし日本人が読むべきだと思うけれど私には訳す時間がない、と、訳者を探していたマリさんの前に現れた中島さんはフィレンチェで40年近く前知り合った山崎さんのボロボロの時代を知っている方。「日本人で初めてフィレンチェに行った使節団が登場することに強い興味を持った」とおっしゃっています。

この本には、メタフィジカル(形而上)なことが多く書かれている、美とは何か、ということが描かれたこの小説に学んだ、日本の小説はリアルなままを描こうとしているけれど、リアルは想像力を持たないとリアルにならない。数学は嘘だけれど、心の中で考える嘘(抽象的なこと)を考える生き物でなければ月にものを運ぼうとする発想は生まれなかった、ということを子どもたちに伝える、と磯田さん。星の王子さまが言っていることにつながる。

あっという間に時間がなくなりました。磯田さん「面白かったなあ」「もう一回会いたいねえ」「ぜひ京都に来てください」

本当に京都に行きますよいいんですか?とマリさん。

聴き逃し期間は今日までです。まだ聴いておられない方はお急ぎください。https://www.nhk.jp/p/mariradi/rs/RKV32Z8G2V/

2023・8・24(木)

追記:慌てて走り書いたままアップし、今見直したら(30日)文章がめちゃくちゃでした。夏の暑さと孫守などの慌しさに正気を失っておりました。失礼千万すいませんでした。

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たつこ
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今でも手元にある「長くつ下のピッピ」「やかまし村のこどもたち」が読書体験の原点。「ギャ〜!」と叫ぶほかない失敗をたび重ねていまに至ります。

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