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特攻〜知られざる真実 後編 誠隊最期の1か月〜

「特攻 知られざる真実 後編 誠隊最期の1か月」8月15日の敗戦記念日に放送されたものです。本日再放送がありました。

1945年4月6日、沖縄名護市、10歳だった、外間政行さんは、アメリカ軍グラマン機に取り囲まれた特攻機が急上昇し方向を変え見えなくなった数日後、海に日本軍の兵隊の遺体が打ち上げられているのを見ました。「あれは誰だったのかなあ、どんな思いで沖縄まで来たのか・・・」と最近とみにとみに気になるそうです。

沖縄県古宇利島沖合に沈むエモンズの側に沈んでいた特攻機は陸軍誠飛行隊のもの、とわかりました。誠隊は皆20代の若者たちでした。NHKの取材で彼らの最後の一ヶ月間が明らかになりました。

兵庫県伊丹市に誠隊最後の貴重な記録が残っていました。手記を書いたのは、特攻教官当時29歳の野村潔中尉。「私の自叙伝」と記されたノートを手にとって「なかなか難しい立場にあったんじゃないかと思います」と義理の息子の高野外夫さん。

誠飛行隊は、千葉県銚子の陸軍銚子飛行場で訓練されていました。1945年2月28日、特攻を告げられた日の36人の隊員たち。「私は彼らの顔を見ていた。流石に青ざめて緊張していた。この死の宣告に小刻みに体を震わせているのがかわいそうであった。」「まるでお通夜のように皆物思いにふけっていた。食事を取る気もしないのだろう。その時点の彼らは死と対峙し、ただ孤独であった。」

野村さんの記録から銚子での本格的な訓練の様子がわかりました。急降下から水平飛行に移行し敵艦に真横からぶつかるための高度な技術を求める訓練です。しかも誠隊に与えられたのは旧式の偵察機九八直協。「飛行機は空中分解寸前で、到底無茶苦茶な操作に搭乗者は耐えきれるものではない。一ヶ月の短期で習得は無理。命のある限り反復攻撃させた方が戦果も期待し、士気も上がるのに、これでは単なる気休めであり、国民に対し、死力を尽くしているという宣伝の自己満足に過ぎない。」

国会図書館に残された音記録で、田中耕二中佐は「現場からの発案で始まった。数の差、性能の差、量の差、があり、それを考えると生還を考えないほうが張り合いがあるというか・・・」と言います。1944年10月フィリピン沖で特攻作戦が採用され一定の戦果をあげました。5ヶ月後に始まった沖縄戦でも「あくまで志願による」という方針のもと、特攻作戦は、終戦まで続けられました。

誠隊は本当に志願だったのか?拒否できる状況ではなかった。「嫌とすれば逃亡以外方法はない。もちろん軍刑は免れない。」(野村さん)

誠第37隊長小林敏夫は、日記を残していました。「まだ特攻の覚悟ができていない者がいる。それをまとめるのが隊長である自分の責任だ。」とあります。小林の姪にあたる廣瀬佐智子さんが、家族から聞いている小林は、水戸の洋品店に生まれ、大阪の商戦会社で働いていた敏夫は好奇心旺盛な若者でした。日記には、飛行学校時代、クラシック音楽を愛している様子が書かれています。「トスカニーニの序曲集を持って帰り、夜聴く、心地よい。音楽こそ私の心に潤いを与える唯一のものだ。」しかし、特攻を命じられてからの日記には「全てを捨てるときである。音楽も愛情も友情もいまは用無し。」とあります。廣瀬さんは「これは本心ではないんじゃないか。自分を奮い立たせるためにあえて勇ましい言葉を選んで書いていたのではないか。23、4で好きなものを捨てて行く心境はどんなものだったか。」と敏夫の気持ちを考えます。

誠隊は空襲を避けるため、銚子から群馬県高崎市の前橋飛行場に移動しました。誠隊は地元の人たちと交流していました。当時8歳だった大沢三夫さん、地域のあちこちで竹を切って飛行機を隠していた誠隊。見回りの特攻隊員と会ったとき家に飛んで帰って蒸したさつまいもを取ってきて「兵隊さんこれ食べとくれ」と渡した大沢さんに、隊員は喜び、そのお礼に飛行機に乗せてくれたといいます。

隊員たちは温泉によく出かけました。前橋市で300年続いた旅館の一人娘関根春江さん92歳は、宿を訪れた特攻隊員と交流していました。「今で言えばイケメンの若い兵隊さんでしたね、白いマフラーをミシンで縫ってあげたのを覚えています。」

3月18日小林少尉も「隊員たちと伊香保に来た。あどけない子どもたちが私たちを慕って集まって来たのは涙が流れるほど嬉しかった。」と日記に記しています。この頃、小林は有名な作曲家に作曲を依頼し自ら作詞しました。当時8歳だった大沢さんは隊員が口ずさんでいたメロディを覚えていて歌ってくれました。「いざいざゆかん誠隊🎵」

出陣式前、訓練も仕上げの段階「相当手に入れた感がする」(小林少尉)。15歳だった三上登喜子さん(91歳)は見学していました。隊員たちが話しかけてきた「目の前で見ていたらすごい角度ですごい速度。」あっけにとられてみていた彼女たちに隊員たちは話しかけて来ました。「特攻隊って体当たりで死ぬって頭があるから近寄り難い感じが会ったけれど、工場でどんなことをしているの?と優しく聞いて来てくれた、そりゃあ一生懸命話しますよね。」三上さんは、帰宅後「私の代わりに人情を連れて行って欲しい、成功しますように」と祈りながら人形を作りました。そんな三上さんは、「私は『細木章』」と地面に書いて「新聞に発表になったら線香の一本でも上げてください」と言われた時のショックに言葉が出なかった、と言います。

小林少尉は水戸の実家に帰りました。「死出の道と知っても母は笑顔で送ってくれた。私が国を去る日に。」と日記にはあります。しかし、姪の廣瀬佐智子さんは「私がもっと引き止めればよかった」と祖母(小林少尉の母)から聞いたといいます。「『どうしても行かなきゃいけないの?』時いたけれど『どうしても』という決意が強くて強く引き止めることができなかった。」

佐々木秀三少尉。妹の佐々木志保さん、10歳年上の兄の修学旅行のお土産の扇子を今も大事に持っています。秀三さんは、特攻隊に編成されたことを最後まで家族に伝えていませんでした。突然帰ってきた兄はいつもと変わらない様子だったが、なかなか起きてこない兄を「朝ごはんだよ」と迎えに行った時兄は「布団をかぶって泣いていた」。「秀三さんどこか痛いの?」と聞いたけれど、それを誰にも言ってはいけないと志保さんは感じたといいます。そのあと秀三さんは明るい顔で朝ごはんをたべ明るく家を出て行きました。

地元の中学生だった木村憲太郎さん、「明日九州に行くんです、出撃するんです。ついてはうちが遠いんで線香をあげさせてください。」と3人の隊員たちが家にやってきて、一人ずつ線香をあげた様子を語り、名前も出身地も聞かなかったことを後悔しているといいます。翌日特攻機が飛び立つのを木村さんは見ていました。木村さんが手を振るのに応えて右の飛行機が翼を左右に大きく振って応えてくれるのがわかったそうです。「かわいそうな人生だよね。なんて言っていいいかわからないよ。真面目な人たちなんだよ。」と木村さん。

野村中尉は誠隊を九州まで送り届けました。「私は高度3000メートルで霊峰富士の東側を飛行した。せめて日本人の誇りを彼らに見せてやりたかった。」小林隊長は「遂に前橋を出発、富士山の尊い姿を目に一路西へ向かう。思えば楽しい20日間だった。」と日記に記しています。野村は小林と最後の言葉を交わしました。「体に気をつけて」と言って絶句した野村に「小林少尉は『教官殿も元気で後の日本をよろしく』とはっきりいった。私は何度も許せと心に詫びた。」

誠隊36人のうち29人が沖縄戦で戦死しました。

四ヶ月後原子爆弾が広島長崎に投下され、8月15日降伏が国民に知らされました。劣勢はすでに決定的だったのです。

亡くなった人の思いは言うに及ばず、特攻隊から生き残った人たちも深い苦悩を抱えることとなりました。

佐賀県原田覚さん、2年前に逝去。誠隊の隊員でした。飛行機の故障で沖永良部島に不時着、島民に助けられた体験を家族には一切語りませんでした。孫の森島さんが10年前地方紙の記事で祖父の過去を知り、それを祖父に見せた時、温厚だった祖父が真剣な神妙な顔つきにどんどんかわり、それ以上聞くことはできなかった、といいます。のちに森島さんは、おばから終戦後のエピソードを聞きます。「おじいちゃんは、ある日家の庭で何かを燃やしていた。それは爪や遺書だった。その姿は近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。」と聞きました。生きて帰ってくるのが恥という時代、その苦悩を周囲には見せなかったけれど心の底に抱え、封印しないと生きてこれなかったのではないかと森島さんは思いを寄せます。

佐々木志保さんは、兄秀三さんが特攻隊員だったことを、戦後軍からの知らせで知りました。家族が悲しむ暇もなく、近所の人たちが次々とやってきて兄を褒め称え、「軍神佐々木秀三の家」と書かれたものを貼られ、皆が手を合わせて通っていった。父は「あれはもう自分の子どもではない。国の子どもだ。」と。父母には、あの時泣いていたことを、最後まで話せなかった志保さんでした。父母の為にも兄の為にもならないと思って。

志保さんは、人生の最後にとその思いを述べてくれます。「戦争は悲惨なもので本当のことをわかってもらったほうがいい。綺麗事は何もない。絶対に戦争に持ち込んではいけない、と私たちが言わなければ誰が言いますか。経験した私たちが言うのです。」

命を捨てることを前提の狂気の作戦・・・そんな狂気の作戦を担わされたのは「いまを当たり前に生きたい」と願った普通の青年だったという事実。

余貴美子さんの語りは心に染み入ります。

2021・8・24(火)合掌あるのみです。戦争は絶対にダメです。

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たつこ
たつこ
今でも手元にある「長くつ下のピッピ」「やかまし村のこどもたち」が読書体験の原点。「ギャ〜!」と叫ぶほかない失敗をたび重ねて今に至ります。心理し(士・師〜〜この二つの「し」の違いは何だろう?)です(臨床心理士・公認心理師)。喜びも多かった教員経験の中、一方で、えも言えぬ息苦しさも感じ、心理しの資格をとって、今は相談活動を行なっています。

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