このブログを書き始めた時は、日本の美しいことばを紹介できたらいいな、季節折々の和歌などを取り上げたら楽しいかも、などと思っていました。
それが思いがけず私自身がすっかり大伴家持にハマってしまい、このブログは家持だらけになってしまいました。「ことば」だけでなく、その「生き様」にハマってしまったのです。ここで改めて、大伴家持という人の生涯についてまとめたいと思いますが、私の下手なまとめよりは、次のサイトを見た方がわかりやすい〜高岡市にある高岡万葉歴史館のサイトです。 https://www.manreki.com/yakamochi/
とはいえ、私もまとめさせていただきます。あわせてご一読いただけると家持理解が深まるとおもいます。
万葉集でも指折りの歌人、大伴旅人(おおともたびと)の長男として718年(養老2年)に生まれ、少年時代には旅人の赴任先である太宰府(福岡県)に行きました。そして平城京に戻って間も無く父旅人は亡くなります。大伴家は、当時は一族の中から太政官の中の議政官(最高会議のメンバー)に必ず一名を送り出す立場にありました。古来武門の家柄であり、また、歌作を修練する場を持っていた一族でもありました。
11歳で育ての母を、14歳で父を亡くした家持を、母代わりに育てたのが、旅人の妹である叔母、坂上郎女(さかのうえのいらつめ)です。彼女は平城京の佐保大伴家の歌壇の中心にいて家持や弟の書持(ふみもち)、従兄弟であろう池主(いけぬし)らの文才も彼女を中心とする修練により磨かれたと考えられます。
家持は十代の終わりに「妾(おみなめ)・愛(はし)やし妹(いも)」と呼んだ女性と出会いますが彼女は二人の子を残して亡くなります。その後坂上郎女の娘、大嬢を妻としますが、多くの女性から恋の歌を寄せられています。才能豊か、容姿端麗、名門の御曹司、モテないわけはないということですね。
二十代を内舎人(うどねり)・宮内少輔(くないのしょうふ)として、三十歳前後の五年間を越中国(高志中国)で地方官として、過ごします。この五年間の越中国の風景を詠んだ作品で家持は歌人として、大きく飛躍したのでした。
都に戻った家持は少納言、兵部少輔、大輔の地位を得て、防人の歌などを収録して万葉集をまとめていきます。しかし、彼を待ち受けていたのは度重なる政変でした。庇護者である橘諸兄の死後、彼は多くの僚友たちを失い、再び地方官として、因幡国(鳥取県)に赴きます。そこで万葉集最後の歌を詠じた(42歳)後も、家持は、不本意であったろう任官を粛々と勤め上げていきます。薩摩国守(鹿児島県)のあと、少年時代を過ごした太宰府にも少弐として赴きます(50歳)。
道鏡を偏愛した称徳天皇(天武系)が崩御し、これまで光の当たらなかった白壁王(天智系)が、光仁天皇となり、ようやく家持は従四位となります。28歳で従五位となってから26年後54歳の時でした。その後も相模国守、兼任で上総国守、伊勢国守、となり、都と地方を行き来しました。
桓武天皇即位後、64歳で従三位となりますが、氷上川継の謀反に連座して京外追放となります。4ヶ月後許されて元の地位(参議従三位春宮大夫)に戻りますが、陸奥出羽按察使鎮守(むつでわのあぜちちんじゅ)将軍を復命し、65歳で多賀城(宮城県)に赴きます。春宮大夫との兼任、中納言への昇格はありましたが、65歳という年齢で辺境の地にゆき、3年後の785年8月28日亡くなります。68歳でした。
しかし、死の1ヶ月のちの9月25日藤原種継暗殺事件に連座して、生前の官位を剥奪され、息子の永主(おそらく40代後半の年齢)は隠岐国(島根県隠岐の島)に配流となりました。それから20年後の806年、桓武天皇はその死の直前に種継事件で処分した人々の官位を復しました。しかし、永主のその後について記録はなく、おそらく隠岐国で亡くなったと考えられます。
このように家持は、奈良時代末期の動乱の中、必死に生き抜き、歌を残し、万葉集をまとめ、国の最南端から最北端まで駆け巡って国を守る仕事をしました。万葉集には家持の思想が反映されていると考えられます。また、歌詠まぬ(残さぬ)人となった後も、彼の仕事を追うことができます。家持を追うことで、この時代の人々のありようや、一方、時代が変わっても変わることのない人間のありようを知ることができると感じています。もう少し家持を追いかけたいと思っています。
大伴家持像
2020.連日40℃超のニュースが流れる8月(葉月)