日本を学ぶ

神崎川展〜川港・吹田の物語〜吹田市立博物館

吹田市立博物館、吉志部神社のある紫金山公園にひっそりと建っています。「ひっそりと」とは言いましたが、博物館自体はなかなか重厚な建物であります。吹田の地は古くから人が住み、多くの文化財が残っており、展示も充実しています。そして面白い企画を打ち出しています。しかし、良い展覧会を開いても訪れる人は(私の知る限り)少ない・・・地味すぎるのかなあ。何より、もう少し足の便の良いところにあればな・・・といつも思います。

今回の企画は、神崎川展〜川港・吹田のものがたり〜、北摂に住む私にとって馴染み深い神崎川、私が小さい頃は臭いばかりの川でしたが、今ではすっかりきれいになりました。神崎川の歴史ってあまり知らない・・・興味津々で博物館にレッツゴー!

博物館入口、階段を登ったところに、吹田の名産吹田くわいが植わっています。可愛らしい白い花をつけていました。http://www.suita5u.com/?page_id=2150

入館すると貸切状態・・・嬉しいような、ちょっと淋しいような・・・神崎川展です。

https://www2.suita.ed.jp/hak/moy/moy1.html

「吹田市と大阪市の境にある神崎川、古くは三国川と呼ばれ、『続日本紀』にその名が登場します。長岡京遷都の翌年延暦4(785)年に運河の採掘が行われたことが記されています。」・・・にびっくり!785年といえば、我らが大伴家持(最近登場しませんが決して忘れているわけではなく常に私の頭の中に家持くんはいます)が68歳で、8月に陸奥(おそらく)で亡くなった年。9月に藤原種継暗殺事件があり、家持は首謀者として除名処分となり、息子の永主が隠岐国に流罪となった辛い年でした。

この工事によって淀川と繋がった三国川は、京都西国を結ぶ水上交通において重要性を増し、右岸に位置する吹田市南部地域は以後川の港として大きく発展していく・・・のだそうです。

吹田市南吹田5丁目に位置する五反島遺跡の発掘調査から、古墳時代、平安時代、鎌倉時代の川底の変化が明らかになったそうです。平安時代にはすでに堤防が築かれていた痕跡もありました。

吹田市南部には、平安時代に荘園の開発が始まり、貴族の邸宅も建てられたということです。また鎌倉時代には貴族の遊行(ゆぎょう=出歩くこと)の地にもなったそうです。特に垂水(たるみ)庄(現在の吹田市江坂、豊津町、江の木町、芳野町、豊中市小曽根)は、東寺の重要な荘園として平安時代から戦国時代まで存続し、ここで集められた年貢は三国川、淀川を利用して京の東寺まで運ばれたと考えられるそうです。

垂水神社は、万葉集に残る名歌とされる、志貴皇子(天智天皇第七皇子)の「石(いわ)走る垂水(たるみ)の上の早蕨(さわらび)の萌え出づる春となりにけるかも=岩の上を激しく流れる滝のほとりでわらびが芽を出している。いよいよ春になったことだなあ」が歌われた場所、と言い伝えられています。ここでは水が今も湧いており、訪れる人々の喉を潤しています。

850年文徳天皇の即位にあたっては八十嶋祭(即位の翌年淀川を舟で下り、難波津に向かい、難波津では海に向かって祭壇を作り厳粛な祭祀をとり行った後、祭祀の用具を水中に放棄して今日に戻る)が行われたことが記録されています。五反島遺跡から発掘されたいくつかのものがその時の祭祀の用具であったという可能性も考えられるそうです。

そして近世には過書船(もとは、過書=関所の通行証を持つ船の意。江戸時代には淀川の貨客輸送にあたった川船をいう)や屎船(肥料となる糞尿を運ぶ船)などの水運の拠点として栄え、吹田の渡@南高浜町も設置され、大坂との間で文人の往来も盛んになったそうです。

展覧会では、それぞれの時代の、この川を巡る人々の往来ややりとりの記録が生き生きと伝わるように展示されていました。特に過書船などの権利を巡る争いや売り買いの記録からは人々の生々しい息遣いが伝わってくるような気がしました。

そして、今回の目玉の一点は、関西大学図書館から借りて展示された、大岡春卜(おおおかしゅんぼく)の「難波及澱川沿岸名勝図巻」(1745年)でした。淀川水系を描いた絵画としてはもっとも古い時代のものとされています。この作品の後に円山応挙や伊藤若冲の淀川を描いた作品が出てくるのだそうです。ほとんど注目されていない大坂画壇の代表者である春卜のこの絵巻を、グーグルEarthと、照らし合わせて、淀川沿岸の名勝をたどっていくDVD「水の都大坂今昔」を観ることで、描かれた場所の意味や面白さ、何より春卜の画力の確かさが、よくわかりました。このDVDを制作した関西大学の方々に感謝!です。

この大岡春卜をはじめとする大坂画壇はほとんど知られておらず、良い作品の多くは国外に出てしまい、大英博物館にはまとまった大坂画壇コレクションがあるということです。吹田市立博物館でも今後取り上げていく予定だそうです。要注目ですね。

時代は下って明治8(1875)年、渡舟は廃止され、それまでの渡舟場に有料の高浜橋が架けられ、その後神崎川の付け替えによって新たに高浜橋が架けられ、旧高浜橋は大阪府に寄付され、現在の上高浜橋となったそうです。いつの時代も有徳の民の力が大きいのですね。

昭和30年代くらいまでは、上新庄・下新庄の辺りでは舟で田や家を行き来する様子が見られたということです。自分が生まれた頃にはまだそういう風景があったのだなあ、と思うと、自分がすごく年をとったようにも感じました。

また、このように川の流れをまとめた図版があり、改めて、これまで慣れ親しんでいた川たちの関係がわかったように思いました。それぞれ別々の場所の川としての記憶ではありますが、私にとっては、それぞれに懐かしい響きを持つ川の名前です。

展覧会の全体像を示す力は私にはないなあ、と今感じています。講演会やギャラリートーク、展示解説、史跡見学会などを利用すればもっと理解が深まりそうです。

改めて、地元の歴史や人々の暮らしをもっと知りたい、と感じた展覧会でした。吹田市博物館、ぜひもっと賑わってほしいと思います。頑張れ!!!

2022・10・3(展覧会に行ったのは9月29日(木))

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英語学習・音楽制作・WEBデザイン・体質改善など、色んな『まなび』と『教育』をテーマにnelle*hirbel(通称ねるひる)を中心に学びクリエーターチームで情報を発信しています。 YouTubeチャンネルでは、音楽×英語の動画コンテンツと英語レッスンを生配信しています。

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