8月に入りますます1日の過ぎるのが早く感じます。今年は8月7日が立秋でした。梅雨が終わったと思ったらもう立秋。暦の上では立秋ですが、実際は夏たけなわ、日本各地で熱中症や熱帯夜が話題となりました。
大伴家持が立秋に詠んだ歌
時の花 いやめづらしも かくしこそ 見し明めめ 秋立つごとに (万葉集巻二十4485)
ときのはな いやめずらしも かくしこそ みしあきらめめ あきたつごとに
折々の花はますます心惹かれることよ。このようにご覧になってみてお心を晴らしなさるだろう。秋が来るごとに。
この年(757年)の立秋は旧暦7月11日ごろだそうです。
この歌の前作が以前にも触れた
咲く花は 移ろふ時あり あしひきの 山菅の根し 長くはありけり (万葉集巻二十4484)
右の一首は大伴宿禰家持、物色の変化を悲怜びて作れり。
美しく咲く花は衰えていく時がある。あしひきの山中の菅の根こそ長く変わらないことだ。
この一首は大伴家持が、自然の変化を悲しんで作った。
です。
繰り返しになりますが、この年の6月28日に橘奈良麻呂・大伴胡麻呂が謀反の罪で密告され、7月4日に逮捕、処刑されました。大伴池主など、多くの僚友たちが亡くなった直後の歌です。
今回は、中西進著万葉集全訳註からの訳を書きました。この本の註には、この「二首題詞なく暗示的」と書かれています。
家持の、「移ろう花のような権力闘争に参加しないで、地道に、山の菅の根っこのように生きていくという決心」を述べた歌(4484)、に、「それとは反対の行動をとって亡くなった僚友たちに心惹かれる自身の心と亡くなった僚友たちが折々の美しい花を見て心慰めてくれという祈り」を込めた歌(4485)、を意識的に配置したと感じられます。(「見し」は「見る」の敬語であり、死者たちへの敬意を表しているのでしょう。)
さらに翌年の2月の宴席で家持は、
八千種の 花は移ろふ 常盤なる 松のさ枝を われは結ばな (万葉集巻二十4501)
やちぐさの はなはうつろう ときわなる まつのさえだを われはむすばな
様々に花は移ろっていく(様々な運命、衰え方を暗示)。そこで私は永遠である聖なる松の枝を結び、永遠の願いをかけよう。
という歌を詠じました。松の枝を結んだ〜というと思い出すのは、有間皇子です。教科書にも取り上げられているあまりにも有名な歌、中大兄皇子と蘇我赤兄に謀られて、謀反の疑いをかけられた有間皇子が護送される時に作った歌(この辺りの史実〜かどうかわかりませんが万葉集にまとめられた様々な人間模様〜は人の心をひきつけますね)は、万葉集中でも最も有名な挽歌の中のひとつです。
磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還りみむ(万葉集巻二 141)
いわしろの はままつがえだを ひきむすび まさきくあらば またかえりみむ
磐代の松の枝を結び合わせて無事を祈るが、もし幸いにも命があって帰路に通ることがあれば、また見られるだろうなあ。
有間皇子の悲劇は後の歌人たちに歌をくちずさませ、万葉集に残されています。家持が尊敬してやまなかった、山上憶良は次のような歌を残しています。
天翔り あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ (万葉集巻二 145)
あまがけり ありかよいつつ みらめども ひとこそしらね まつはしるらん
天空を翔り通いながら皇子の魂は松の枝を見ているだろうか。それを人間が知るよしもないにしろ、松は知っているに違いない。
亡くなった僚友たちと有間皇子は、讒言により殺されたという点で重なり合います。そして人の力では、亡くなった人々の心やその後は知るよしもありませんが、聖なる力を持つ松の枝は知っているに違いないのです。
様々な歌が重層的に重なり合って、家持の悲しみが表現されます。
権力争いの敗者たちに心を寄せていく家持の心持ちが、万葉集を形づくっているのですね。
2020.8.9(日)nagasakiの日